都をどり(歌舞練場)
昭和初期のガイド文
市電四条大和大路下車、祇園新地花見小路の歌舞練場において、毎年4月1日から月末まで催される舞踊で、京都名物の随一とされています。明治5年(1872年)京都で博覧会が開かれた時、万亭の主人杉浦氏が舞踊の師匠達と計画し、新たに一種の踊りを工夫させ、その年の3月仮に林下町松の家席で興行したのが起原で、その翌6年(1873年)には花見小路に歌舞練場を建て「都踊り」と称して興行しましたが、大いに世上の好評を博し、以来年次に進歩し発展して今日の盛況を見ることとなったものです。現在の建物は檜造りの純日本式二階造で、舞台、観覧席、点茶席、待合席、楽屋等総建坪4,300m²におよんでいます。
舞台の構造装置等は劇場とほとんど異なるところなく、その背景装飾画景は、年々新作となる踊りの歌曲にちなんで作られます。登場人員は地方11人、囃方10人、踊子32人を1隊とし、7隊364人、7日ごとに交代することとなっています。踊子は華やかな揃いの衣裳を着て、一様の彩扇を手にし、歌曲につれてヨイヤサと唱えながら、両花道から練り出して舞台に上がって舞います。いずれも祇園新地の若い歌妓で、歌の音色と舞の手振と背景の画景とあいまって、観者を心気恍惚の境に引き入れます。
特等観覧客のためには別に点茶席の設えがあり、そこに案内して薄茶を点じて味わえることとなっています。
令和に見に行くなら
- 名称
- 都をどり(歌舞練場)
- かな
- みやこをどり(かぶれんじょう)
- 種別
- レジャー
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 京都府京都市東山区祇園町南側570
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
市電四條大和大路下車、祇園新地花見小路の歌舞練場に於て、每年四月一日から月末まで催される舞踊で、京都名物の隨一とされて居る。明治五年京都で博覽會が開かれた時、萬亭の主人杉浦氏が舞踊の師匠達と謀りて、新に一種の踊を工夫させ、その年の三月假に林下町松の家席で興行したのが起原で、その翌六年には花見小路に歌舞練場を建て「都踊」と稱して興行したが、大に世上の好評を博し、爾來年次に進步し發展して今日の盛況を見ることゝなつたのである。今の建物は檜造りの純日本式二階造で、舞臺、觀覽席、點茶席、待合席、樂屋等總建坪四三アールに及んで居る。
舞臺の構造裝置等は劇場と殆ど異なるところなく、その背景裝飾畫景は、年々新作せらるゝ踊の歌曲に因んで作られる。登場人員は地方十一人、囃方十人、踊子三十二人を一隊とし、七隊三百六十四人、七日每に交代することゝなつて居る。踊子は華やかな揃の衣裳を著、一樣の彩扇を手にし、歌曲につれてヨウイヤサと唱へながら、兩花道から練り出して舞臺に上つて舞ふ。いづれも祇園新地の若い歌妓で、歌の音色と舞の手振と背景の畫景と相俟つて、觀者を心氣恍惚の境に牽き入れる。
特等觀覽客の爲には別に點茶席の設あり、そこに案內して薄茶を點じて侑むることゝなつて居る。
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