高台寺

高臺寺[臨濟宗]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電安井北門前下車、東山鷲峰山の麓、景勝の地にあります。慶長10年(1605年)豊臣秀吉の夫人高台院が秀吉の冥福を祈るために創建したものです。徳川氏が豊臣氏を滅ぼすと、高台院の歓心を買おうとして、財力を惜しまず増築させたため、堂宇は当初非常に壮麗を極め人目を驚かせましたが、数度火災に罹り、当時の建築物はただ開山堂と霊屋を残しているのみです。

開山堂[国宝] 老樹苔石愛すべき指定の名園内にあり、方丈から廊下が通じています。三間五面、単層入母屋本瓦葺、周囲の水頭窓、桟唐戸、軒の桝組などいずれも唐様ですが、全体として和様の気分が漂っています。内部は天井桝組、頭貫、虹梁等、至るところ極彩色で草花文様、天人などを描き、絢爛たる桃山式特徴を現し、中央には開山三江和尚の像を安置しています。

霊屋[国宝] 開山堂から臥竜廊を登って行くと樹林のなかにあります。桁行四間梁間三間、単層、屋根は宝形造、杮葺、開山堂と同じく慶長10年の建築です。柱は朱塗あるいは黒塗とし、その他随所に彩色を施し、金具をちりばめ、当初は華麗で眼も眩むばかりであったことがよく偲ばれます。内陣は一段高く、後方に厨子の間を設け、須弥壇を造っています。壇上中央の厨子には随求菩薩の像、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左には北政所の坐像を安置しています。須弥壇の柱は黒塗で虚空に楽器の飛行する有様を蒔絵とし、その他須弥壇、木階および厨子の扉に施した菊花、紅葉、菊桐などの蒔絵文様は、桃山工芸美術の粋であって、高台寺蒔絵と呼ばれ名高いものです。

時雨亭と傘亭 霊屋の上方にあり、利休の意匠で、もと桃山城にあったものと伝えています。このあたりは展望もよく京洛中を眺めるのによいところです。

表門[国宝] 桁行三間、梁間一間の薬医門で、加藤清正によって伏見城から移されたものと伝えています。規模雄大、日本第一流の桃山式大薬医門です。

  • 宝物
  • 十六羅漢像[国宝] 絹本著色 十六幅 伝貫休筆、八幅宛京都奈良両博物館出陳
  • 蒔絵調度類[国宝] 十四種 京都博物館に出陳
  • 豊臣秀吉消息[国宝] 二通 一通宛京都および奈良博物館出陳
  • 豊臣秀吉像[国宝] 絹本著色 一幅
※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行

令和に見に行くなら

名称
高台寺
かな
こうだいじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市東山区下河原通八坂鳥居前下ル下河原町526
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電安井北門前下車、東山鷲峰山の麓、景勝の地にある。慶長十年豐臣秀吉の夫人高臺院が秀吉の冥福を祈るために創建したものである。德川氏の豐臣氏を滅すや、高臺院の歡心を買はんため、財力を惜まず經營せしめたから、堂宇は當初頗る壯麗を極め人目を驚かしたが、數度火災に罹り、當時の建築物は唯開山堂と靈屋を殘して居るのみである。

開山堂[國寶] 老樹苔石愛すべき指定の名園內にあり、方丈から廊下が通じて居る。三閒五面、單層入母屋本瓦葺、周圍の水頭窓、棧唐戶、軒の桝組など何れも唐樣であるが、全體として和樣の氣分が漂うて居る。內部は天井桝組、頭貫、虹梁等、至るところ極彩色で草花文樣、天人などを描き、絢爛たる桃山式特徵を現はし、中央には開山三江和尙の像を安置して居る。

靈屋[國寶] 開山堂から臥龍廊を登つて行くと樹林の中にある。桁行四閒梁閒三閒、單層、屋根は寶形造、杮葺、開山堂と同じく慶長十年の建築である。柱は朱塗或は黑塗となし、その他隨所に彩色を施し、金具をちりばめ、當初は華麗眼も眩む許りであつたことがよく偲ばれる。內陣は一段高く、後方に厨子の閒を設け、須彌壇を造つて居る。壇上中央の厨子には隨求菩薩の像、向つて右の厨子には豐臣秀吉の坐像、左には北政所の坐像を安置して居る。須彌壇の柱は黑塗で虛空に樂器の飛行せる有樣を蒔繪となし、その他須彌壇、木階及厨子の扉に施した菊花、紅葉、菊桐などの蒔繪文樣は、桃山工藝美術の粹であつて、高臺寺蒔繪と稱して名高い。

時雨亭と傘亭 靈屋の上方にあり、利休の意匠に成り、もと桃山城にあつたものと傳へて居る。この邊りは展望もよく京洛中を眺めるに好い所である。

表門[國寶] 桁行三閒、梁閒一閒の藥醫門で、加藤淸正によつて伏見城から移されたものと傳へて居る。規模雄大、我が國第一流の桃山式大藥醫門である。

  • 寶物
  • 十六羅漢像[國寶] 絹本著色 十六幅 傳貫休筆、八幅宛京都奈良兩博物館出陳
  • 蒔繪調度類[國寶] 十四種 京都博物館に出陳
  • 豐臣秀吉消息[國寶] 二通 一通宛京都及奈良博物館出陳
  • 豐臣秀吉像[國寶] 絹本著色 一幅

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