三十三間堂(蓮華王院)

三十三閒堂(蓮華王院)[國寶]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電七条大和大路下車、東山区建仁寺通七条南にあり、妙法院に属しています。この地はもと後白河法皇の御所であったと伝えられていますが、法皇は仏教に帰依され、平安時代の長寛3年(1165年)平重盛に勅して仏堂を建て、観音像1,001体および二十八部衆を安置されたのが本院の起原です。その後鎌倉時代の建長元年(1249~1256年)火災に罹り、今の三十三間堂は文永2年(1265年)に再建されたものです。柱間は35ありますが、三十三間というのは内陣の柱間から来ているのでしょう。奥行は五面、単層入母屋造、本瓦葺、屋根低く、軒深く、入母屋が比較的奥へ引っ込み、正面は非常に長大で、側面から見た格好はなかなか美しいものです。手法はよく和様の伝統を受け継ぎ、内陣天井の虹梁桝組などに残る極彩色のあとには、鎌倉時代を偲ばせるものが多くあります。

堂内は中央を仏壇とし、南北に千体観音像を安置しています。本尊千手千眼観音坐像および二十八部衆の立像は、建長3年(1251年)後深草天皇の勅を奉じて、大仏師湛慶、少仏師康円、康清等が作ったもので、国宝に指定されています。本尊千手千眼観音像は高さ3.3mあまりの巨像で、十重の台座に趺坐し、肢体の配置均衡のよい佳作です。二十八部衆は鎌倉中期の代表作ですが、現在そのなかの優れたものを選んで京都博物館に出陳されています。

三十三間堂の後に行われた大矢数という射式は昔から有名でした。安土桃山時代の慶長4年(1599年)に吉田五左衛門が千射をしたのが大矢数の始めで、それ以来武術の一典となりました。これは六十六間に達した通矢を数えてその最も多い者を表彰するものです。

蓮華王院の南大門も国宝で、創建は鎌倉時代になりますが、現在のものは豊臣秀吉が改築したもので、八脚門、切妻造本瓦葺の雄大な桃山時代の建築です。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行

令和に見に行くなら

名称
三十三間堂(蓮華王院)
かな
さんじゅうさんげんどう(れんげおういん)
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市東山区三十三間堂廻町657
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電七條大和大路下車、東山區建仁寺通七條南にあり、妙法院に屬して居る。この地はもと後白河法皇の御所であつたと傳へられるが、法皇は佛敎に歸依し給ひ、長寬三年平重盛に敕して佛堂を建て、觀音像一千一軀及二十八部衆を安置せしめられたのが本院の起原である。その後建長元年火災に罹り、今の三十三閒堂は文永二年に再建されたものである。柱閒は三十五あるが、三十三閒と云ふのは內陣の柱閒から來て居るのであらう。奧行は五面、單層入母屋造、本瓦葺 屋根低く、軒深く、入母屋が比較的奧へ引つ込み、正面頗る長大で、側面から見た恰好は中々美事である。手法はよく和樣の傳統を承け繼ぎ、內陣天井虹梁桝組などに殘る極彩色のあとには、鐮倉時代を偲ばしむるものが多い。

堂內は中央を佛壇とし、南北に千體觀音像を安置して居る。本尊千手千眼觀音坐像及二十八部衆の立像は、建長三年後深草天皇の敕を奉じて、大佛師湛慶、少佛師康圓、康淸等が作つたもので、國寶に指定されて居る。本尊千手千眼觀音像は高さ十一尺餘の巨像で、十重の臺座に趺坐し、肢體の配置均衡よき佳作である。二十八部衆は鐮倉中期の代表作であるが、今その中の優れたものを選んで京都博物館に出陳されて居る。

三十三閒堂の後に行はれた大矢數と云ふ射式は昔から有名であつた。慶長四年に吉田五左衞門が千射をしたのが大矢數の始めで、それ以來武術の一典となつた。これは六十六閒に達した通矢を檢べてその拔群者に撿證を出すのである。

蓮華王院の南大門も國寶で、創建は鐮倉時代にあるが、今のは豐臣秀吉が改築したもので、八脚門、切妻造本瓦葺の雄大な桃山時代の建築である。

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