豊国神社

豐國神社[別格官幣社]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電大和大路下車、京都博物館の北隣にあり、豊臣秀吉を祀っています。秀吉は慶長3年(1598年)8月18日伏見城に没しましたが、当時その亡くなったことを秘密にして本社の後方阿弥陀ヶ峰に密葬され、翌4年(1599年)社殿が完成しその霊をここに祀ったものです。徳川氏はこれを快く思わず、ついに破壊して荒廃するままとなりました。現在の社殿は明治の初年(1868年)に再興されたもので、同5年(1872年)別格官幣社に列されました。

唐門[国貿] 伏見城の遺構で明治初年に南禅寺金地院から移建されました。四脚の唐門で屋根は後に唐破風を付け、重厚な檜皮葺になっています。豪放な彫刻があり、随所に華麗な彩色を加えたあとが残っています。特に正面には巨大な蟇股を置き、なかに53の桐をひとつ大きく現し、その周囲に雄大な唐草の透彫を添えています。また中央本柱の上に架された冠木上には、蟇股の左右に松竹の丸彫を嵌装してさらに豪壮の気を増しています。この彫刻の前に鶴の丸彫が天井の棰から釣り下っているのはやや子供の悪戯のような類で、建築物の装飾としてはもとより感心のできないものです。しかし全体としてこの門は豪壮の気に満ち、結構雄大、よく桃山時代の特色を現したこの種の唐門の白眉であることを失わないだけでなく、秀吉の気風を偲ぶことができる遺構として尊いものです。なお境内には宝物殿があり、豊公関係の文書器物その他のものが100点あまりも陳列されていますが、平常は閉鎖されています。

豊公廟 妙法院の東、博物館の裏門からすぐに急峻な500段の石段を登りきった阿弥陀ヶ峰の頂上にあります。豊臣氏滅亡後長く荒廃していましたが、明治30年(1897年)秀吉の三百年忌にあたり大いに修築を行い、巨大な五輪塔が建てられました。ここはまた京都市街展望の好地です。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行
豊国神社唐門

令和に見に行くなら

名称
豊国神社
かな
とよくにじんじゃ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市東山区大和大路正面茶屋町530
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電大和大路下車、京都博物館の北鄰にあり、豐臣秀吉を祀つて居る。秀吉は慶長三年八月十八日伏見城に薨じたが、當時喪を祕して本社の後方阿彌陀峯に密葬され、翌四年社殿成つてその靈をこゝに祀つたのである。德川氏これを悅ばず、遂に破壞して荒廢するに任した。今の社殿は明治の初年に再興されたもので、同六年別格官幣社に列せられた。

唐門[國貿] 伏見城の遺構で明治初年に南禪寺金地院から移建された。四脚の唐門で屋根は後に唐破風を附し、重厚な檜皮葺に成つて居る。豪放な彫刻があり、隨所に華麗な彩色を加へたあとが殘つて居る。殊に正面には巨大な蟇股を置き、中に五三の桐を一つ大きく現はし、その周圍に雄大な唐草の透彫を添へて居る。また中央本柱の上に架せられた冠木上には、蟇股の左右に松竹の丸彫を嵌裝して更に豪壯の氣を增して居る。この彫刻の前に鶴の丸彫が天井の棰から釣り下つて居るのは稍兒戲に類し、建築物の裝飾としてはもとより感心の出來ないものである。然し全體としてこの門は豪壯の氣に滿ち、結構雄大、よく桃山時代の特色を現はしたこの種唐門の白眉たるを失はないのみではなく、秀吉の氣風を偲ぶべき遺構として尊いものである。尙境內には寶物殿があり、豐公關係の文書器物その他のものが百餘點陳列されて居るが、平常は閉鎖されて居る。

豐公廟 妙法院の東、博物館の裏門から直に急峻な五百級の石段を登り切つた阿彌陀峯の頂上にある。豐臣氏滅亡後永く荒廢に歸して居たが、明治三十年秀吉の三百年忌に當り大いに修築を行ひ、巨大な五輪塔が建てられた。こゝはまた京都市街展望の好地である。

洛東・東山のみどころ