広隆寺

廣隆寺[眞言宗御室派]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

嵐山電車太子前下車、太秦蜂ヶ岡にあります。

この寺は推古天皇の30年(622年)秦川勝が聖徳太子の命を受けて創建し、新羅、任那の2国が献じた仏像を安置したものと伝えられています。弘仁(810~824年)および久安年間(1145~1151年)に再度炎上し、その後保元年間(1156~1159年)に藤原信頼が再建に着手し、永万元年(1165年)に落成しました。現在の講堂は当時の遺構で、このほかに鎌倉時代の建築となる桂宮院本堂がありますが、太子堂および仁王門は江戸時代の建築です。

講堂[国宝] 当初は九間六面でしたが、室町時代の永禄の修補に現在の五間四面となりました。単層屋根は四注造本瓦葺朱塗の建築で、棰は二重、桝組は和様出組を用い、中備に高い斗束を配し、内部は二重虹梁を架し、天井は化粧屋根裏とし、いずれもよく藤原時代の手法を伝えています。床は漆喰叩きで、中央須弥壇上には本尊阿弥陀如来坐像、その左右に地蔵菩薩および虚空蔵菩薩の坐像が安置されています。いずれも木造、平安時代の優秀な作で国宝に指定されています。このほか堂内西北隅に千手観音立像(国宝)があります。平安朝初期の巨像で高さ約2.7mに達しています。また東北隅には不空羂索観音立像があります。天平末期の作風が見られる巨大な像で高さ3mあまりにおよんでいます。

上宮王院 太子堂とも称し、講堂の後方にあり、聖徳太子の像が安置されています。堂は享保年間の再建となり、外陣は宸殿風の建築です。

桂宮院本堂[国宝] 奥の院とも称し、太子堂の西に離れて建っています。桂宮院は聖徳太子の創建と伝えていますが、この堂は鎌倉時代に建築された八角円堂です。単層檜皮葺で頂上に宝珠を載せています。八注の屋根はその勾配極めてゆるく、軒に反あって、優美軽快な形状を保っています。組物は三斗を用い四面に出入口を開き板扉を設けています。

堂内には極彩色の聖徳太子半跏像(国宝)が安置されています。室町時代の作と思われます。このほか、藤原時代の阿弥陀如来立像(国宝)が安置されています。

霊宝殿 太子堂の後方にあり、大正12年(1923年)聖徳太子1,300年遠忌記念のために建てられたもので、次の寺宝が陳列されています。

  • 毘沙門天立像[国宝] 一体 木造、もとは彩色があったが、今はほとんど剥落して唇および眼球の輪廓に朱色を残すのみです。平安時代の佳作です。
  • 十二神将立像[国宝] 木造、彩色、藤原時代 十二体
  • 仏頭[国宝] 一個 木造、彩色、藤原時代巨像の頭部で、胴の内部に寛弘の年号があるといいます。
  • 十二天像[国宝] 絹本著色、鎌倉初期 十二幅
  • 鉄鐘[国宝] 一口 銘「泰施入薬師仏建保五年七月 日秦未時」
  • 能恵法師絵詞[国宝] 一巻 紙本著色、詞伝寂蓮法師、画土佐行長、東大寺の僧能恵が地獄に行き、閻魔王に般若経を授けたという伝説を描いたものです。その描線は肥腴を持ち活達自由、鎌倉時代土佐派の佳作です。
  • 四天王立像[国宝] 四体 木造彩色、藤原時代、寺伝に定朝の弟子長勢の作といいます。
  • 聖観音立像[国宝] 一体 木造彩色、平安時代
  • 大日如来坐像[国宝] 一体 木造漆箔、体躯は細長く藤原末期の作と思われます。
  • 吉祥天立像[国宝] 一体 木造彩色、金箔、実相花文など残存、平安時代
  • 日光月光菩薩立像[国宝] 木造漆箔、藤原末期 二体
  • 弥勒菩薩坐像[国宝] 一体 塑造、平安朝初期の作と思われますが天平の雄偉な相貌を存しています。
  • 地蔵菩薩立像[国宝] 一体 木造、世に埋木地蔵と称するもので、平安時代の遒勁な作です。
  • 男神坐像[国宝] 木造、伝秦川勝像、藤原時代 一体
  • 女神坐像[国宝] 木造、藤原時代 一体
  • 弥勒菩薩半跏像[国宝] 一体 木造、漆箔、寺伝に聖徳太子の作と称する有名な像で、その様式は大和の中宮寺本尊および朝鮮総督府博物館の弥勒像に酷似した推古時代の傑作です。
  • 弥勒菩薩像[国宝] 一体 木造、漆箔、百済国から貢献されたものと伝えていますが、時代はやや下り、白鳳時代に近づいた頃の作と思われるもので、その技巧は推古時代よりさらに進んで随唐の優麗さが加わっています。
  • 吉祥天立像[国宝] 二体 木造彩色、平安時代の作で、一方の像には朱色および模様が残存しています。
  • 大日如来坐像[国宝] 一体 木造、漆箔、藤原時代の作で漆箔が大部分残存しています。
  • 不動明王坐像[国宝] 一体 木造、平安時代の遒勁な作です。
  • 五髻文殊菩薩坐像[国宝] 一体 木造、面貌の雄大な割に身体のやや繊弱な像で、藤原時代の作です。膝裏に室町時代の文安2年(1445年)修復の銘があります。
※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行
広隆寺能恵法師絵詞 広隆寺如意輪観音像

令和に見に行くなら

名称
広隆寺
かな
こうりゅうじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市右京区太秦蜂岡町32
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

嵐山電車太子前下車、太秦蜂ケ岡にある。

當寺は推古天皇の三十年秦川勝が聖德太子の命を受けて創建し、新羅、任那の二國が獻じた佛像を安置したものと傳へられて居る。弘仁及久安年閒に再度炎上し、その後保元年閒に藤原信賴が再建に着手し、永萬元年に落成した。現在の講堂は當時の遺構で、この外に鐮倉時代の建築にかゝる桂宮院本堂があるが、太子堂及仁王門は江戶時代の建築である。

講堂[國寶] 當初は九閒六面であつたが、永祿の修補に現在の五閒四面となつた。單層屋根は四注造本瓦葺朱塗の建築で、棰は二重、桝組は和樣出組を用ゐ、中備に高い斗束を配し、內部は二重虹梁を架し、天井は化粧屋根裏となし、何れもよく藤原時代の手法を傳へて居る、床は漆喰叩きで、中央須彌壇上には本尊阿彌陀如來坐像、その左右に地藏菩薩及虛空藏菩薩の坐像が安置されて居る。何れも木造、平安時代の優秀な作で國寶に指定されて居る。この外堂內西北隅に千手觀音立像(國寶)がある。平安朝初期の巨像で高約九尺に達して居る。また東北隅には不空羂索觀音立像がある。天平末期の作風を存する巨大な像で高一丈餘に及んで居る。

上宮王院 太子堂とも稱し、講堂の後方にあり、聖德太子の像が安置されて居る。堂は享保年閒の再建にかゝり、外陣は宸殿風の建築である。

桂宮院本堂[國寶] 奧の院とも稱し、太子堂の西方に離れて建つて居る。桂宮院は聖德太子の創建と傳へて居るが、この堂は鐮倉時代に建築された八角圓堂である。單層檜皮葺で頂上に寶珠を載せて居る。八注の屋根はその勾配極めてゆるく、軒に反ありて、優美輕快なる形狀を保つて居る。組物は三斗を用ゐ四面に出入口を開き板扉を設けて居る。

堂內には極彩色の聖德太子半跏像(國寶)が安置されて居る。室町時代の作と思はれる。この外、藤原時代の阿彌陀如來立像(國寶)が安置されて居る。

靈寶殿 太子堂の後方にあり、大正十二年聖德太子一千三百年遠忌記念のために建てられたもので、左記の寺寶が陳列されて居る。

  • 毘沙門天立像[國寶] 一軀 木造、もとは彩色があつたが、今は殆ど剥落して唇及眼球の輪廓に朱色を存するのみである。平安時代の佳作である。
  • 十二神將立像[國寶] 木造、彩色、藤原時代 十二軀
  • 佛頭[國寶] 一個 木造、彩色、藤原時代巨像の頭部で、胴の內部に寬弘の年號があると云ふ。
  • 十二天像[國寶] 絹本著色、鐮倉初期 十二幅
  • 鐵鐘[國寶] 一口 銘「泰施入藥師佛建保五年七月 日秦未時」
  • 能惠法師繪詞[國寶] 一卷 紙本著色、詞傳寂蓮法師、畫土佐行長、東大寺の僧能惠が地獄に行き、閻魔王に般若經を授けたと云ふ傳說を描いたものである。その描線は肥腴を持ち活達自由、鐮倉時代土佐派の佳作である。
  • 四天王立像[國寶] 四軀 木造彩色、藤原時代、寺傳に定朝の弟子長勢の作と云ふ。
  • 聖觀音立像[國寶] 一軀 木造彩色、平安時代
  • 大日如來坐像[國寶] 一軀 木造漆箔、體軀細長く藤原末期の作と思はれる。
  • 吉祥天立像[國寶] 一軀 木造彩色、金箔、實相花文など殘存、平安時代
  • 日光月光菩薩立像[國寶] 木造漆箔、藤原末期 二軀
  • 彌勒菩薩坐像[國寶] 一軀 塑造、平安朝初期の作と思はれるが天平の雄偉な相貌を存して居る。
  • 地藏菩薩立像[國寶] 一軀 木造、世に埋木地藏と稱するもので、平安時代の遒勁な作である。
  • 男神坐像[國寶] 木造、傳秦川勝像、藤原時代 一軀
  • 女神坐像[國寶] 木造、藤原時代 一軀
  • 彌勒菩薩半跏像[國寶] 一軀 木造、漆箔、寺傳に聖德太子の作と稱する有名な像で、その樣式は大和の中宮寺本尊及朝鮮總督府博物館の彌勒像に酷似せる推古時代の傑作である。
  • 彌勒菩薩像[國寶] 一軀 木造、漆箔、百濟國から貢獻されたものと傳へて居るが、時代は稍々降り、白鳳時代に近づいた頃の作と思はれるもので、その技巧は推古時代より更に進んで隨唐の優麗さが加つ居てる。
  • 吉祥天立像[國寶] 二軀 木造彩色、平安時代の作で、一方の像には朱色及模樣が殘存して居る。
  • 大日如來坐像[國寶] 一軀 木造、漆箔、藤原時代の作で漆箔が大部分殘存して居る。
  • 不動明王坐像[國寶] 一軀 木造、平安時代の遒勁な作である。
  • 五髻文殊菩薩坐像[國寶] 一軀 木造、面貌の雄大なる割合に身體の稍纖弱な像で、藤原時代の作である。膝裏に文安二年修復の銘がある。

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