元寇防塁(百道地区)
昭和初期のガイド文
博多駅の西約10km、市内西新町百道松原にあり、電車の便があります。鎌倉時代、文永11年(1274年)蒙古襲来の後、幕府が蒙古の再襲来を予期して少弐経資に命じて築かせた石塁跡です。建治2年(1276年)3月10日に経資は旨を部内の地頭、御家人らに伝え、20日をかけて人夫を率いて博多津に向かい、各自担当の場所につかせて各々その所領面積の数高により一反ごとに一寸の築造を課し、8月に至ってほぼできあがったものです。西は柑子岳下の大原のあたりに始まり、今津、今宿、生の松原、姪浜付近の海岸から、東は当時の多々羅潟である箱崎、名島のあたりに至る博多湾の全沿岸にわたって築造されました。規模や構造は場所と地勢とによって一様ではありませんが、この地に残るものは基底部の幅25m、高さ2.5mの土塁上に、幅3mあまり、高さ2mの石塁を積上げたもので、石材は残島の玄武岩、愛宕山の砂岩、および荒津山の礫岩からなるといい、現在発掘を経て覆土、砂を除いて石築が露出しています。外面は急で、内面は緩かに傾斜をなし、馬で駆け上がって賊船を射下げるようにしたといいますが、現在その遺構がうかがい得られます。弘安4年(1281年)の来襲時に、日本の軍がこれによって豪古軍を防ぎ上陸できないようにして、ついに閏7月1日大風に乗じてこれを潰滅させたものです。
令和に見に行くなら
- 名称
- 元寇防塁(百道地区)
- かな
- げんこうぼうるい(ももちちく)
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 現存し見学できる
- 住所
- 福岡県福岡市早良区西新
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
驛の西約一〇粁、市內西新町百道松原にあり、電車の便がある。鐮倉時代、文永十一年蒙古襲來の後、幕府は蒙古の再襲來を豫期して少貳經資に命じて築かしめた石壘址である。建治二年三月十日に經資は旨を部內の地頭、御家人等に傳へ、廿日を期して人夫を率ゐて博多津に會し各自擔當の場所に就かしめ各々その所領面積の數高に依り一反每に一寸宛の築造を課し、八月に至りて略出來上つたものである。西は柑子嶽下の大原の邊に始まり、今津、今宿、生の松原、姪濱附近の海岸から、東は當時の多々羅潟なる箱崎、名島の邊に至る博多灣の全沿岸に亙りて築造せられた。規模構造は場所と地勢とによりて一樣でないが、この地に遺存のものは基底部の幅二五米、高さ二米半の土壘上に、幅三米餘、高さ二米の石壘を積上げたもので、石材は殘島の玄武岩、愛宕山の砂岩、及荒津山の礫岩から成ると云ひ、今發掘を經て覆土、砂を除きて石築が露出して居る。外面は急で、內面は緩かに傾斜をなし、馬上にて驅け上りて賊船を射下げる樣になしたと云ふが、今にその遺構が窺ひ得られる。弘安四年の來襲に、我が軍これに據りて豪古軍を防ぎ上陸する能はざらしめ、遂に閏七月一日大風に乘じてこれを潰滅せしめたものである。
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