崇福寺

崇福寺[臨濟宗大德寺派]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市内千代町千代松原にあり、静かな霊場です。四条天皇が鎌倉時代の仁治元年(1240年)太宰府の付近にある横岳に創建された寺で、文永4年(1267年)開山の大応国師が宋から帰って住みましたが、安土桃山時代の天正14年(1586年)高橋紹運の岩屋城が陥落した際、この寺も兵災に遭いました。慶長5年(1600年)黒田長政が入国にあたり黒田孝高(如水)とともに再建をはかり、同7年(1602年)現在の地に移築し、大徳寺の春屋国師を招いて中興開山としました。本堂の後方に黒田孝高、同長政その他累代藩主の墓および重臣の墓が残ります。境内には玄洋社志士の墓、刺客来島恒喜、女丈夫高場乱の墓もあります。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
崇福寺
かな
そうふくじ
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
昭和20年(1945年)の空襲で多くの堂宇を焼失しました。
住所
福岡県福岡市博多区千代4-7-79
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市內千代町千代松原にあり、閑寂な靈場である。四條天皇仁治元年太宰府の附近なる橫嶽に創建せられた寺で、文永四年開山大應國師宋より歸りて住したが、天正十四年高橋紹運の岩屋城が陷つた時この寺も兵災に罹つた。慶長五年黑田長政入國に及び黑田孝高(如水)と共に再建を謀り、同七年現今の地に移築せしめ、大德寺の春屋國師を請じて中興開山となした。本堂の後方に黑田孝高、同長政その他累代藩主墓及重臣墓が存する。境內には玄洋社志士の墓、刺客來島恆喜、女丈夫高場亂墓もある。

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