三菱造船所

三菱造船所
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

長崎港の西海岸西泊湾から平戸小屋に至る沿岸一帯延長約2.9km、面積約35万m²を占め、小菅船渠、製鋼工場、社宅用地等を合わせると総面積約73万m²におよびます。江戸時代末期の安政3年(1856年)徳川幕府がオランダ人を招いて飽の浦機工場を開いたのに始まり、明治17年(1884年)三菱社の経営となりました。当時職員42人、職工766人に過ぎませんでしたが、大正7、8年頃の好況時代は職工約2万人に達し、現在は5,000人あまりの就業員があります。立神工場は造船工事を、飽の浦工場は機械類の製作鋳造を主としています。ドックは3か所に設けられ、第一船渠は立神に、第二船渠は飽の浦に、第三船渠は八軒屋にあって、第三船渠は長さ約222m、幅約35m、水深約10m、日本最大のものといわれています。戦艦日向、霧島、商船浅間丸、竜田丸等はここで建造されました。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
三菱造船所
かな
みつびしぞうせんじょ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
備考
現在の名称で言えば三菱重工業の長崎造船所です。
住所
長崎県長崎市飽の浦町
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

長崎港の西海岸西泊灣から平戶小屋に至る沿岸一帶延長約二粁九、面積約三五ヘクタールを占め、小菅船渠、製鋼工場、社宅用地等を合せると總面積約七三ヘクタールに及ぶ。安政三年德川幕府が蘭人を聘して飽の浦機工場を開いたのに始まり、明治十七年三菱社の經營となつた。當時職員四十二人、職工七百六十六人に過ぎなかつたが、大正七、八年頃の好況時代は職工約二萬に達し、今は五千餘の就業員がある。立神工場は造船工事を、飽の浦工場は機械類の製作鑄造を主として居る。船渠は三ケ所に設けられ、第一船渠は立神に、第二船渠は飽の浦に、第三船渠は八軒屋にあつて、第三船渠は長さ約二二二米、幅約三五米、水深約一〇米、我が國最大のものと云はれて居る、戰艦日向、霧島、商船淺閒丸、龍田丸等はこゝで建造された。

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