興福寺

興福寺[黃檗宗]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

長崎駅の東南、市内寺町にあります。寺は明の帰化人欧陽氏の別荘でしたが、後に明江の人真円が来日してここに住んだので、長崎在住の明人が計画して一寺を建立し、真円をもって開基としました。術の鼻祖高島秋帆の別邸で、江戸時代後期の天保9年(1838年)本邸焼失後移ってここに住み、砲術を諸生に教授した旧跡です。瓦葺二階建の建物および同じく二階建の書籍銃器等を納めた倉庫、庭前の小銃射撃の標的とした弾痕石、石灯籠、旧宅の一部を囲む土塀等が残っています。階上の客間雨声楼は今なお旧態を残していますが、秋帆の居室であった階下の六畳間は桜の間と呼ばれもと襖、床の間から壁間、天井に至るまで、爛漫とした桜花の図をもって張られましたが、現在はわずかに襖および床貼付だけが残っています。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
興福寺
かな
こうふくじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
長崎県長崎市寺町4-32
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

長崎驛の東南、市內寺町にある。寺は明の歸化人歐陽氏の別業であつたが、後明江の人眞圓來朝してこゝに住したので、長崎在住の明人相謀りて一寺を建立し、眞圓を以て開基とした。術の鼻祖高島秋帆の別邸で、天保九年本邸燒失後移りてこゝに住し、砲術を諸生に敎授した舊跡である。瓦葺二階建の建物及同じく二階建の書籍銃器等を納めた倉庫、庭前の小銃射擊の標的となした彈痕石、石燈籠、舊宅の一部を圍む土塀等が遺つて居る。階上の客閒雨聲樓は今なほ舊態を存するが、秋帆の居室であつた階下の六疊閒は櫻の閒と呼ばれもと襖、床の閒より壁閒、天井に至るまで、爛漫たる櫻花の圖を以て張られたが、今僅に襖及床貼付だけが遺つて居る。

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