福済寺

福濟寺[黃檗宗]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

長崎駅の東北市内下筑後町にあります。

この寺は江戸時代前期の寛永年間(1624~1644年)中国福建泉州の僧覚悔禅師の創建となり、長崎における中国寺のひとつとして、その建築様式も崇福寺と同様まったく中国明式に属し、大雄宝殿を中心とする一廓にはこれに附属する前堂および廻廊をもち、また青蓮堂を中心とする一廓には、中門および廻廊を附属しています。このほかさらに開山堂および大書院があります。

大雄宝殿(本堂または釈迦堂)[国宝] 五間五面重層、屋根入母屋造本瓦葺、慶安2年(1649年)の建築で釈迦、文殊、普賢像を安置しています。大棟の中央には中国式の八角五層小塔を置いています。前面一間通を開放していることなど青蓮堂と同様中国明式の特徴を示しています。内部は朱塗、床瓦敷で欄間には牡丹の透彫があり極彩色を施しています。

前堂および廻廊(護法堂、弥勒堂または天王堂)[国宝] 大雄寳殿の前堂で本堂とは両側の廻廊によって連結されています。前堂は五間二面、単層、屋根切妻造の建物で、塑像金箔押の布袋像を安置しています。廻廊は左右各桁行二間、梁間一間、外側は卍字形の格子を嵌め、内部は石敷と瓦敷になっています。

青蓮堂(観音堂)[国宝] 五間四面、単層屋根入母屋、造、本瓦葺、慶安3年(1650年)の建築で観音像を安置しています。大棟の中央に宝珠を置き、正面一間通を開放せるはこの種中国式仏殿の普通な構造です。入側および向拝の柱は角柱で礎盤の上に建ています。内部は床瓦敷、天井は格天井、中国式構造の濃厚な建築です。

大観門(中門)および廻廊[国宝] 青蓮堂の正面にある四脚門で廻廊はその両端から出て青蓮堂の両端に達しています。大観門は単層、屋根切妻造、本瓦葺、明式の建築でその手法構造は非常に簡単、形態も珍しく普通の四脚門とは大きく相違しています。すなわち桟唐戸の両側は桃色の壁となり円窓を開けています。

書院貼付絵 床および襖に山水および松竹梅等を描き、金地に極彩色を施した華麗な障屏画で、筆者は小原慶山です。慶山は渡辺秀石門下の逸足で花鳥樹石黒竜墨梅に長じ、江戸時代中期の享保年間(1716~1736年)に没しました。彼の作品中この障屏画はその代表作と見るべきものです。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
福済寺
かな
ふくさいじ
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
昭和20年(1945年)の原爆により焼失、戦後に再建されました。
住所
長崎県長崎市筑後町2-56
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

長崎驛の東北市內下筑後町にある。

當寺は寬永年閒支那福建泉州の僧覺悔禪師の創建にかゝり、長崎に於ける支那寺の一にして、その建築樣式も崇福寺と同樣全く支那明式に屬し、大雄寶殿を中心とする一廓にはこれに附屬する前堂及廻廊を有し、また靑蓮堂を中心とする一廓には、中門及廻廊を附屬して居る。この外尙開山堂及大書院がある。

大雄寶殿(本堂または釋迦堂)[國寶] 五閒五面重層、屋根入母屋造本瓦葺、慶安二年の建築で釋迦、文殊、普賢像を安置して居る。大棟の中央には支那式の八角五層小塔を置いて居る。前面一閒通を開放せることまた靑蓮堂と同樣支那明式の特徵を示して居る。內部は朱塗、床瓦敷にして欄閒には牡丹の透彫があり極彩色を施して居る。

前堂及廻廊(護法堂、彌勒堂または天王堂)[國寶] 大雄寳殿の前堂で本堂とは兩側の廻廊によつて連結されて居る。前堂は五閒二面、單層、屋根切妻造の建物で、塑像金箔押の布袋像を安置して居る。廻廊は左右各桁行二閒、梁閒一閒、外側は卍字形の格子を嵌め、內部は石敷と瓦敷とになつて居る。

靑蓮堂(觀音堂)[國寶] 五閒四面、單層屋根入母屋、造、本瓦葺、慶安三年の建築で觀音像を安置して居る。大棟の中央に寶珠を置き、正面一閒通を開放せるはこの種支那式佛殿の普通な構造である。入側及向拜の柱は角柱で礎盤の上に建て居る。內部は床瓦敷、天井は格天井、支那式構造の濃厚な建築である。

大觀門(中門)及廻廊[國寶] 靑蓮堂の正面にある四脚門で廻廊はその兩端より出で靑蓮堂の兩端に達して居る。大觀門は單層、屋根切妻造、本瓦葺、明式の建築でその手法構造頗る簡單、形態も奇にして普通の四脚門とは甚しく相違して居る。卽ち棧唐戶の兩側は桃色の壁となり圓窓を明けて居る。

書院貼付繪 床及襖に山水及松竹梅等を描き、金地に極彩色を施した華麗な障屏畫で、筆者は小原慶山である。慶山は渡邊秀石門下の逸足で花鳥樹石黑龍墨梅に長じ、享保年閒に歿した。彼の作品中この障屏畫はその代表作と見るべきものである。

長崎のみどころ