長崎市

長崎市
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

浦上、長崎、長崎港3駅所在地。3面に山を背負い、西南の一方は海水が深く湾入し、面積約41km²を占めています。この地は戦国時代の頃大村氏に属し天文の頃(1532~1555年)まで深江の浦と称しましたが、元亀天正の頃(1570~1592年)南蛮船が、貨物を載せて入泊してから貿易が開かれ、江戸時代前期の寛永13年(1636年)の鎖国以後はここに外国奉行を置かれ、貿易はここ一港のみに限られたため、ますます市況は繁栄し、安政の開国に至るまで日本唯一の海外文化輸入の門戸でした。

現在貿易は後進の神戸、横浜、大阪等にはおよびませんが、相応に取引は多く、工業は機械器具業を主とし、昭和7年(1932年)の生産4,400万円の9割は工産物に属し、三菱造船所の盛衰は市況に関係が深いものです。港は近年修築されて大いに面目を改め、優に8,000トン級の汽船を接岸することができ、外国航路船の出入するものが少なくありません。市内に県庁、控訴院等があります。最も繁華な町は東西浜の町、鍛冶屋町、石灰町、船大工町、本竜町、広馬場町、築町、江戸町、本下町等です。長崎の凧揚、盂蘭盆会および諏訪大祭は三大名物といわれていて、ペーロン(剗竜、伯竜)と称する競漕も名物です。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
長崎市
かな
ながさきし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
長崎県長崎市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

浦上、長崎、長崎港三驛所在地。三面山を負ひ、西南の一方は海水深く灣入し、面積約四一方粁を占める。この地は戰國時代の頃大村氏に屬し天文の頃まで深江の浦と稱したが、元龜天正の頃南蠻船、貨物を載せて入泊してから貿易開かれ、寬永十三年の鎖國以後はこゝに外國奉行を置かれ、貿易はこゝ一港のみに限られたため、ますます市況の繁榮を來し、安政の開國に至るまで我が國唯一の海外文化輸入の門戶であつた。

現時貿易は後進の神戶、橫濱、大阪等には及ばないが、相應に取引多く、工業は機械器具業を主とし、昭和七年の生產四千四百萬圓の九割は工產物に屬し、三菱造船所の盛衰は市況に關係が深い。港は近年修築されて大いに面目を改め、優に八千噸級の汽船を接岸することが出來、外國航路船の出入するものが少くない。市內に縣廳、控訴院等がある。最も殷賑な町は東西濱の町、鍛冶屋町、石灰町、船大工町、本龍町、廣馬場町、築町、江戶町、本下町等である。長崎の凧揚、盂蘭盆會及諏訪大祭は三大名物と云はれて居り、ペーロン(剗龍、伯龍)と稱する競漕も名物である。

長崎のみどころ