シーボルト宅跡

シーボルト宅址[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

長崎駅の東市内鳴滝町にあります。近世日本の文化の恩人の一人であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトが出島蘭館の医官として長崎滞在中、奉行の許可を得て設けた別宅で、もと南蛮寺(トードス・オス・サントス)の跡であったといい、江戸時代後期の文政6年(1823年)来日以来ここに居住しました。現在、空地に2か所の古井戸、石垣等が残り、後方の小丘腹に倉庫跡があって高さ約2mの石積の壁等が残存しています。向かって左の一の井戸のそばにシーボルト樹があり、この前面に当時の二階建書斎があり、向かって右の井戸の前には平屋建の住宅があったといいます。シーボルトはここにあって日本の学生に医学、博物学その他を教授し、庭内に各種の植物を栽培し、安政6年(1859年)再渡来の後もまたここに住して教授しました。文久2年(1862年)帰国しましたが、慶応2年(1866年)71歳で郷国ミュンヘンに逝去しました。シーボルト樹の後方に晩年の胸像があり、宅跡の入口にある記念碑は明治30年(1897年)3月の建立で、施福多先生宅址記の文が刻されています。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
シーボルト宅跡
かな
しーぼるとたくあと
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
長崎県長崎市鳴滝2
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

長崎驛の東市內鳴瀧町にある。近世我が國文化の一恩人たるフイリツポフランツスフオンシーボルトが出島蘭館の醫官として長崎滯在中、奉行の許可を得て設けた別宅で、もと南蠻寺(トドスオスサントス)の址であつたと云ひ、文政六年來朝以來こゝに居住した。今、空地に二箇所の古井戶、石垣等存し、後方の小丘腹に倉庫址ありて高さ約二米の石積の壁等が殘存して居る。向つて左方の一の井戶の傍にシーボルト樹あり、この前面に當時の二階建書齋あり、向つて右方の井戶の前には平屋建の住宅があつたと云ふ。シーボルトこゝに在りて我が國の學生に醫學、博物學その他を敎授し、庭內に各種の植物を栽培し、安政六年再渡來の後もまたこゝに住して敎授した。文久二年歸國したが、慶應二年七十一歲で鄕國ミユンヘンに逝去した。シーボルト樹の後方に晚年の胸像あり、宅址の入口にある記念碑は明治三十年三月の建立で、施福多先生宅址記の文が刻されて居る。

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