千早城跡

千早城(金剛山城)址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

赤阪城址の東南約6km、千早村千早にあります。金剛山の西腹に位置し、本丸、出丸跡などが残り、鎌倉時代の元弘2年(1332年)楠木正成が築いたところで南河内17城の根城です。正成は赤阪城から移ってこの城を拠点としましたが、元弘3年(1333年)、吉野、赤阪の諸城がみな落ち、北条軍がこれを囲み、正成は寡兵でこれを防ぎ包囲を解きました。その後室町時代の正平8年(1353年)足利尊氏が来攻しましたが落とすことができず、以来一族が守り正行、正儀を経て正勝の時代となり、室町時代の元中7年(1390年)畠山基国の兵に攻められたところでついに落城しました。大手口跡に宝剣塔があり、江戸時代中期の享保年間(1716~1736年)に立てた戦死者の供養塔で、本丸跡の中央に千早城旧址の銅標があり、東南に千早神社、東には楠木正儀墓があります。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
千早城跡
かな
ちはやじょうせき
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府南河内郡千早赤阪村千早
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

赤阪城址の東南約六粁、千早村千早にある。金剛山の西腹に位し、本丸、出丸址等存し、元弘二年楠木正成の築く所で南河內十七城の根城である。正成赤阪城から遷りてこの城に據つたが、元弘三年、吉野、赤阪の諸城皆陷り、北條軍これを圍み、正成寡兵を以て防ぎ圍解く。その後正平八年足利尊氏來攻したが陷らず、爾來相傳へて正行、正儀を經て正勝の時に及び、元中七年畠山基國の兵の攻むる所となりて遂に落城した。大手口址に寶劍塔あり、享保年閒に建てた戰死者の供養塔で、本丸址の中央に千早城舊址の銅標があり、東南に千早神社、東には楠木正儀墓がある。

南河内地方のみどころ