野中寺

野中寺[眞言宗高野派]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

大阪鉄道誉田の西2km、埴生町野々上にあります。聖徳太子の開創となる古寺で、中の太子と俗称します。中世兵火の後、荒廃していましたが、江戸時代前期の寛文年中(1661~1673年)、覚英阿闍梨の本願により、律宗の僧である慈忍・恵猛両師が再興して、同宗一派の本山輪番所としました。境内に地蔵堂、観音堂があり、東の小丘に行基菩薩楊枝の井と称するものがあります。地蔵堂本尊は地蔵菩薩立像で木造、鎌倉時代の製作に属します。また寺宝の弥勒菩薩半跏像は金銅で高さ30cmあまり、円形台座の周囲に次の刻銘があります。

丙寅年四月大旧八日癸卯開記橘寺智識之等詣中宮天皇御大身労坐之時誓願之奉弥勒御像也友人数一百十八是依六道四生人等此致可相之也

丙寅年は天智天皇第五年に相当するもので、天皇御悩御平癒を祈願して造立したということです。この種の推古仏とされるもののうち、製作年代がやや下るため、手法も熟して形態も整い、余程唐風に似通ったところがあり、刻銘によって製作の由来年代が明白で、この形式の半跏像が如意輪観音のみでなく、弥勒にもあることが確められます。これらの史的価値に加えて、その技巧練達、彼の古韓式造像のような稚拙の気なく、わずかに30cmほどの小像ながら堂々たる相好風格をもっています。この像は本尊とともに国宝に指定されています。

寺域に往時の礎石群が遺存し、三門の前の礎石は中門址、向かって右は金堂跡、左は塔跡等に推定され、その付近から古瓦を出土しています。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
野中寺
かな
やちゅうじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府羽曳野市野々上5-9-24
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

同譽田の西二粁、埴生町野々上にある。聖德太子の開創にかゝる古寺で、中の太子と俗稱する。中世兵火の後、荒廢に委せられたが、寬文年中、覺英阿闍梨の本願により、律宗の僧慈忍惠猛兩師再興して、同宗一派の本山輪番所とした。境內に地藏堂、觀音堂あり、東の小丘に行基菩薩楊枝の井と稱するものがある。地藏堂本尊は地藏菩薩立像で木造、鐮倉時代の製作に屬する。また寺寶の彌勒菩薩半跏像は金銅で高一尺餘、圓形臺座の周に左の刻銘がある。

丙寅年四月大舊八日癸卯開記橘寺智識之等詣中宮天皇御大身勞坐之時誓願之奉彌勒御像也友人數一百十八是依六道四生人等此致可相之也

丙寅年は天智天皇第五年に相當するもので、天皇御惱御平癒を祈願の爲に造立したのである。この種推古佛と稱するものゝうち、製作年代の稍下るだけに、手法も熟して形態整ひ、餘程唐風に近似するところがあり、刻銘に依て製作の由來年代が明白で、この形式の半跏像が如意輪觀音のみでなく、彌勒にもあることが確められるのである。これ等の史的價値に加へて、その技巧練達、彼の古韓式造像の如き稚拙の氣なく、僅に尺餘の小像ながら堂々たる相好風格を存して居る。この像は本尊と共に國寶に指定されて居る。

寺域に往時の礎石群遺存し、三門の前の礎石は中門址、向つて右方は金堂址、左方は塔址等に推定され、且附近から古瓦を出土して居る。

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