赤阪城跡

赤阪城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

大阪鉄道富田林の南約7km、赤阪村森屋東にあります。東は千早川の崖に面し、北、西に深い谷があり、南は丘陵に連なっています。丘上は拓かれて田畑となっているところに本丸、二の丸跡があり、下赤阪城址と呼ばれています。鎌倉時代の元弘元年(1331年)楠木正成がここに城郭を構えましたが、北条方の大軍がこれを囲み、一度城は落ちて千早城に逃れ、翌年これを復興しました。その後この城は千早城とともに楠氏の拠点となり、正成の没後は一族がやはり拠点とし、室町時代の正平14年(1359年)さらに修理して北朝の軍に対抗しましたが、翌15年5月北軍の来攻により城は落ち、城兵は千早城に退却することとなり廃城となりました。現在本丸跡に記念碑が2基立っています。ここから東南約1km離れ同村桐山大根田山上にある城址は上赤阪城址と呼ばれ、本丸、帯曲輪、出丸、二の丸跡などが残り、鎌倉時代の元弘3年(1333年)千早籠城の際に部将平野将監を置いて防御したところです。なお下赤阪城址の東の同村水分、山の井には楠公誕生地の碑があります。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
赤阪城跡
かな
あかさかじょうせき
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府南河内郡千早赤阪村東阪25
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

同富田林の南約七粁、赤阪村森屋東にある。東は千早川の懸崖に臨み、北、西に深谷あり、南方は丘陵に連なる。丘上拓かれて田畝となれる所に本丸、二の丸址を存し、下赤阪城址と稱して居る。元弘元年楠木正成こゝに城郭を構へたが、北條方の大軍これを圍み、一旦城陷りて千早城に遁れ、翌年これを復した。その後この城は千早城と共に楠氏の根據となり、正成歿後一族これに據つたが、正平十四年更に修覆して北朝の軍に對し、翌十五年五月北軍來攻して城陷り、城兵千早城に走るに及んで廢城となつた。今本丸址に記念碑二基が建つて居る。これより東南約一粁を距て同村桐山大根田山上の城址は上赤阪城址と稱し、本丸、帶曲輪、出丸、二の丸址等存し、元弘三年千早籠城の際部將平野將監を置きて防禦となした所である。尙下赤阪城址の東方同村水分、山の井には楠公誕生地の碑がある。

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