道明寺

道明寺[眞言宗御室派]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

大阪鉄道道明寺の西0.5km、道明寺村道明寺にあり、土師神社と街道をへだてた場所にあります。聖徳太子が尼寺の創建を発願した際、菅公の祖、土師八島連が宅を寄進し精舎として土師寺と称し、後に道明尼寺と改めました。光仁天皇が奈良時代の天応元年(781年)土師を改めて菅原の姓を賜り、その後菅原是善の妹、道真の叔母の覚寿尼が、氏寺としてここに出家し、道真は左遷の途上ここに一泊し、自刻の像を遺したといいます。平安時代の天慶年中(938~947年)菅公を鎮祭するにあたり、この像を寺の北岡に遷し祀りました。これが天満宮です。室町時代の元亀年間(1570~1573年)畠山氏の兵火によって焼失し、安土桃山時代の天正中(1573~1592年)には織田信長が寺領を寄進し、すこしずつ昔の様子を取り戻したといいます。本尊木造十一面観音立像は素地そのままで、豊満な体躯に天衣をまとい、珠帯を垂れ、運刀は鋭利で写実の趣を備えた優作で平安朝のものです、高さ97cmあまり。寺宝の木造十一面観音立像は檀像式の彫刻で製作年代は本尊と同様で、いずれも菅原道真作と伝わり、高さ97cmほど。ヒノキの純一木造、素地のまま精細に刻出したもので、そのまっすぐに立つ姿勢や釧瓔珞等の装身具の精緻さ、なびくような天衣、二重瞼の眼と高い鼻をもつ叡邁な相好など多分に唐式を備えています。木造聖徳太子立像は16歳の御影と伝わり、鎌倉時代の作です。修理の際胎内から弘安年間書写の経巻が出ました。3体ともにいずれも国宝に指定されています。

なお古来有名な道明寺糒(ほしい)は今日でも製造しています。道明寺糒は大阪夏の陣に、寺尼が糒を将士に与えて食べさせたもので、今に名物となって伝わっています。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
道明寺
かな
どうみょうじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府藤井寺市道明寺1-14-31
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

同道明寺の西半粁、道明寺村道明寺にあり、土師神社と街道を距てゝある。聖德太子尼寺を創建せんとし給ひ、菅公の祖、土師八島連、宅を捨てゝ精舍となし、土師寺と稱し、後道明尼寺と改めた。光仁天皇天應元年土師を改めて菅原の姓を賜ひ、その後菅原是善の妹、道眞の姨覺壽尼、氏寺なればこゝに出家し、道眞左遷の途次こゝに一泊し、自刻の像を遺したと云ふ。天慶年中菅公を鎭祭せられるに當り、この像を寺の北岡に遷し祀つた、これが天滿宮である。元龜年閒畠山氏の兵火に燒失し、天正中織田信長寺領を寄進し、稍々舊觀を復したと云ふ。本尊木造十一面觀音立像は素地その儘で、豐滿な體躯に天衣を纏繞し、珠帶を垂れ、運刀銳利寫實の妙趣を備へた優作で平安朝のものである、高三尺二寸餘。寺寶の木造十一面觀音立像は檀像式の彫刻で製作年代は本尊と同樣である、何れも菅原道眞作と傳へる、高三尺二寸餘。檜材純一木造、素地のまゝ精細に刻出したもので、その眞直に立つ姿勢釧瓔珞等の裝身具の精緻な刻鏤、反轉搖曳の態を盡した天衣の施設、二重瞼の眼と隆き鼻をもつ叡邁な相好等多分に唐式を備へて居る。木造聖德太子立像は御十六歲の御影と傳へ、鐮倉時代の作である。修理の際胎內から弘安年閒書寫の經卷が出た。三堀共に何れも國寶に指定されて居る。

尙古來有名な道明寺糒は今日でも製造して頒つて居る。道明寺糒は大阪夏の陣に、寺尼が糒を將士に與へて糧食とさせたので、今に名物となつて傳はつて居るのである。

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