叡福寺

叡福寺[眞言宗高野派]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

大阪鉄道太子口喜志の東4km、磯長村太子にあります。創始は明らかでありませんが、もと聖徳太子御廟の香華所としたもので、その後安土桃山時代の慶長8年(1603年)豊臣氏がこれを修造しました。勝軍寺の下の太子に対して上の太子と称し、本堂に如意輪観音を安置し、その北に太子堂があり、東に阿弥陀堂、大師堂があり、西南に多宝塔があります。寺宝の絹本着色文殊渡海図は山城醍醐光台院の同図を模した構図で、金彩美しく鎌倉時代の作で国宝となっています。高屋連枚人墓誌は砂岩製で同形の石を重ねて蓋となし、次の銘が刻されています。

故正六位上常陸国大日高屋建枚人之嘉宝亀七年歳次丙辰十一月乙卯朔廿八日壬午葬

寺の東の山腹から江戸時代中期の延享年中(1744~1748年)に発掘されたといい、国宝に指定されています。なおここから0.5km、磯長村春日の妙見寺の寺宝で国宝になっている紀吉継の墓誌もここで保管されていますが、磚製で同形の磚を重ねて蓋とし、次の銘文が陰刻されています。

維延歴三年歳次甲子朔癸西丁酉参議従四位下陸奥国按察使兼守鎮守副将軍勲四等紀氏諱広純之女吉継墓志

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
叡福寺
かな
えいふくじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府南河内郡太子町太子2146
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

同太子口喜志の東四粁、磯長村太子にある。創始不詳であるが、もと聖德太子御廟の香華所となしたもので、その後慶長八年豐臣氏がこれを修造した。勝軍寺の下の太子に對して上の太子と稱し、本堂に如意輪觀音を安置し、その北に太子堂あり、東に阿彌陀堂、大師堂あり、西南に多寶塔あり、寺寶の絹本着色文殊渡海圖は山城醍醐光臺院の同圖を模した構圖で、金彩美しく鐮倉時代の作で國寶である。高屋連枚人墓誌は砂岩製で同形の石を重ねて蓋となし、左の銘が刻されて居る。

故正六位上常陸國大日高屋建枚人之嘉寶龜七年歲次丙辰十一月乙卯朔廿八日壬午葬

寺の東の山腹から延享年中に發掘されたと云ひ、國寶に指定されて居る。尙これから半粁、磯長村春日の妙見寺の寺寶で國寶になつて居る紀吉繼の墓誌もこゝに保管して居るが、磚製で同形の磚を重ねて蓋となし、左の銘文が陰刻されて居る。

維延歷三年歲次甲子朔癸西丁酉參議從四位下陸奧國按察使兼守鎭守副將軍勳四等紀氏諱廣純之女吉繼墓志

南河内地方のみどころ