頼山陽書斎(山紫水明処)

賴山陽書齋(山紫水明處)[指定史蹟]

昭和初期のガイド文

市電河原町通丸太町下車、東三本木丸太町上ル南町にあります。鴨川の河岸に建てられた簡素な小亭で、人家が立ち並ぶなかに挟まれ、丸太橋から望むことができます。頼山陽が晩年居を定めた水西荘の書斎で、ほぼ旧態を残しています。入母屋造藁葺、主室は四畳半で、ほかに北側に二畳および板の間が附属しています。室は天井阿字形、床の間、違棚あり、前面は鴨川に臨んで低い欄干あり、三面皆開放して眺望を楽しめるよう、後方は内庭に向かって小蔀窓を開いています。亭は鴨川の清流を隔てて東山三十六峰を一望でき、いわゆる山紫水明の境にあります。山陽は江戸時代後期の安永9年(1780年)大阪に生まれ、幼少時代に父春水が浅野侯に招聘されたことにともない広島に赴き藩学に入り、また家学をうけましたが、のち江戸に出て尾藤二洲に学びました。文化8年(1811年)京都に居を定めて子弟を教授し、忠孝の義を明らかにし、君臣の分を正し、士道の砥励に努め、もっぱら著述に力を注ぎ、著書は10冊以上あり、特に日本外史、日本政記、日本楽府などが知られています。日本政記はもっぱらこの書斎で書かれたものであるといいます。天保3年(1832年)9月没しました。53歳。維新後正四位を贈られました。墓は東山円山公園の長楽寺内墓地にあります。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行

令和に見に行くなら

名称
頼山陽書斎(山紫水明処)
かな
らいさんようしょさい(さんしすいめいしょ)
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市上京区南町東三本木通丸太町上ル517
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電河原町通丸太町下車、東三本木丸太町上ル南町にある。賀茂川の河岸に建てられた簡素な小亭で、人家櫛比の閒に挾まれ、丸太橋から望見し得られる。賴山陽が晚年居をトした水西莊の書齋で、ほゞ舊態を存して居る。入母屋造藁葺、主室は四疊半で、外に北側に二疊及板の閒が附屬して居る。室は天井阿字形、床の閒、違棚あり、前面賀茂川に臨んで低い欄干あり、三面皆開放して眺望をほしいまゝにすべく、後方內庭に向つて小蔀窓を開く。亭は賀茂川の淸流を距てゝ東山三十六峰を一眸のうちに收められ、いはゆる山紫水明の境にある。山陽は安永九年大阪に生れ、幼にして父春水の淺野侯に聘せられるに從つて廣島に赴き藩學に入り、また家學をうけたが、のち江戶に出でて尾藤二洲に學ぶ。文化八年京都に居を定めて子弟を敎授し、忠孝の義を明かにし、君臣の分を正しうし、士道の砥勵に努め、專ら力を著述に致し、著書十餘種あり、殊に日本外史、日本政記、日本樂府等最も世に行はれた。日本政記は專らこの書齋で稿成つたものであると云ふ。天保三年九月歿した。歲五十三。維新後正四位を贈られた。墓は東山圓山公園長樂寺內墓地にある。

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