京都市

京都市

昭和初期のガイド文

市は山城国の中央にある山城盆地、すなわち京都盆地の北部大半を占めています。東西27km、南北26km、周囲138km、面積289km²あまりで、人口は約95万人を数えます。

昭和6年(1931年)4月に隣接27市町村を市に編入し、広大な市域を有するに至りましたが、その約3分2の185km²は山林、23km²は神社仏閣、残りの69km²あまりが普通の平地で、政治都市である東京、経済都市である大阪に対して、観光都市である京都の特異性がよく見えます。海抜838mの比叡山も924mの愛宕山も市域に含まれ、嵯峨と醍醐の奥地には猪や鹿なども出る深山があります。

市の主要部は沖積層の低地に位置し、その東北西の三面を囲む高所は主に古生層からなり、洪積層、第三紀層および花崗岩が見られるところもあります。東に連なる東山は一般に高度が低く、起伏は丸みを帯びていることから、蒲団かぶって寝ている姿と形容され、如意ヶ岳から稲荷山まで36峰があるといいます。その東山の北端に、比叡山が高くそびえています。北山には鞍馬山、衣笠山等がありますが、鞍馬山は市界の外に属します。西山の北部には愛宕山、嵐山等が屹立し、その愛宕山が市の最高点となっています。本当の西山は嵐山の南、主として乙訓郡に属する山々を指すのだといいます。

主な河川は南部を西流する宇治川で、その水系に属する桂川は西部から西南境を流れて、清滝川、鴨川を合せ、上流に保津川、大堰川の名があります。南境に湛えている巨椋池は山城第一の大湖で、宇治川に排水します。

市は桓武天皇の奠都以来1,000年もの間、長く日本の首府だったところで、一歩歩けば名所があり、二歩歩けば古蹟があり、名所古蹟が多いことでは全国無比です。奠都以来の歴史はいったんおくとして、明治維新後における市域の変遷を略記すれば、明治12年(1879年)3月上京、下京の2区を設け、同21年(1888年)6月愛宕郡岡崎、聖護院、吉田、浄土寺、南禅寺、鹿ヶ谷、粟田口、今熊野、清閑寺の各村を編入し、翌22年(1889年)4月2区を合わせて市の区域としました。同35年(1902年)3月葛野郡大内村字東塩小路、西九条を編入し、大正7年(1918年)4月愛宕郡田中、白川、下鴨、鞍馬口、野口、上賀茂の一部、大宮の一部、葛野郡衣笠、朱雀、大内、七条、紀伊、柳原、東九条、上鳥羽の一部および深草の一部の各町村を編入し、市域が非常に広がりました。昭和4年(1929年)4月上京、下京の2区を分割して、新たに中京、左京、東山の3区を増設しました。また同6年(1931年)4月、27市町村を合併して、右京、伏見の2区を増設し、面積は60km²から289km²となりました。編入市町村のうち、愛宕郡上賀茂、大宮、鷹峰の3村は上京区に、同郡修学院、松ヶ崎の2村は左京区に、宇治郡山科町は東山区に、紀伊郡吉祥院、上鳥羽の2村は下京区に合併し、葛野郡嵯峨町および花園、太秦、西院、梅ヶ畑、梅津、京極、松尾、桂、川岡の9村は右京区とし、伏見市、紀伊郡深草町および竹田、堀内、下鳥羽、横大路、納所、向島、宇治郡醍醐の7村は伏見区としました。

市の人口は昭和5年(1930年)の国勢調査によると約77万人ですが、27市町村の編入によって約95万人となり、人口の多さで日本の都市の第3位に位置し、大正14年(1925年)の約68万、同9年(1920年)の約59万に比べて、非常に増加しています。しかし人口の密度は大きくありません。

市は上京、下京、左京、右京、中京、東山、伏見の7区に分かれ、中京区は中部に、上京区はその北に、下京区は南に、左京区、東山区は南北に連なってこれらの東に、右京区は西にあります。また伏見区は下京、東山2区の南にあって、市の最南部を占めます。

市は天皇御即位の大礼および大嘗会を行われる特別な都会です。この地は仏教諸宗派の本山が多くあるので、宗教上の大中心となり、名勝旧蹟の観光を兼ねた旅客いわゆる「お上りさん」が多く集まります。また大学その他多くの学校があるので、学芸の一中心ともなっています。産業は古来美術工芸に秀で、概して小規模ですが、機械を応用する大工場も近年次第に増加しています。

市は古来工芸地として知られ、西陣織、京染、刺繍、陶磁器、漆器、扇子、団扇等が重要産物となっています。伏見は酒の醸造で名高く、洛北峨嵯方面には数か所に映画製作所があり、また市域内に約2万m²の農耕地があります。

市の中央部、往古の平安京にあたる部分は、道路がおおむね南北あるいは東西に走って、碁盤の目のように正しく、その幅は一般に狭いものですが、なかには近年拡張されたものもあります。南北に通ずる縦通と東西に通ずる横通の交叉点を基準として地物の所在点を現し、縦通にて北行することを上ル、南行することを下ルといい、東西に通ずる横通には東に入る、西に入るといいます。繁華な街路を挙げると、縦通に河原町通、寺町通、烏丸通等、横通に三条通、四条通等があります。これらのうち四条通は首位を占め、新式の大建築が多くあり、その寺町通から河原町通に至る間すなわち御旅町と呼ばれる部分は歓楽境新京極に連なって京都で最も賑わうところです。三条通は四条通の北に並行し、かつて上京、下京の境であったこともあります。市の里程元標は三条烏丸にあります。以上のほか、堀川通、大宮通、千本通、七条通等にも賑わうところがあります。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行

令和に見に行くなら

名称
京都市
かな
きょうとし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市は、山城國の中央、山城盆地、卽ち京都盆地の北部大半を占めて居る。東西二七粁餘、南北二六粁餘、周圍一三八粁餘、面積二八九方粁餘、人口約九十五萬を數ふ。

昭和六年四月鄰接二十七市町村を市に編入し、廣大なる市域を有するに至つたが、その約三分二の一八五方粁餘は山林、二三方粁餘は神社佛閣、殘りの六九方粁餘が普通平地で、政治都市たる東京、經濟都市たる大阪に對立して、觀光都市たる京都の特異性を明かにして居る。海拔八三八米の比叡山も、九二四米の愛宕山も、市域に包含され、嵯峨と醍醐の奧地には猪や鹿さへも出る深山がある。

市の要部は沖積層の低地に位し、その東北西の三面を圍む高所は主に古生層より成り、洪積層、第三紀層及び花崗岩を見る所もある。東方に連る東山は一般に高度低く、起伏圓味を帶びて居るから、蒲團着て寢たる姿と形容され、如意ケ嶽から稻荷山まで三十六峯ありと云ふ。その東山の北端に、比叡山が高く聳えて居る。北山には鞍馬山、衣笠山等があるが、鞍馬山は市界の外に屬する。西山の北部には愛宕山、嵐山等が屹立し、その愛宕山が市の最高點となつて居る。眞の西山は嵐山の南方、主として乙訓郡に屬する諸山を指すのだと云ふ。

主なる河川は南部を西流する宇治川で、その水系に屬する桂川は西部から西南境を流れて、淸瀧川、賀茂川を合せ、上流に保津川、大堰川の名がある。南境に湛へて居る巨椋池は山城第一の大湖で、宇治川に排水する。

市は桓武天皇の奠都以來一千餘年に及び、久しく我が國の首府であつた所で、一步にして名所があり、二步にして古蹟があり、名所古蹟に富むこと全國無比である。奠都以來の歷史は姑くこれを措き、明治維新後に於ける市域の變遷を略記すれば、明治十二年三月上京、下京の二區を設け、同二十一年六月愛宕郡岡崎、聖護院、吉田、淨土寺、南禪寺、鹿ケ谷、粟田口、今熊野、淸閑寺の各村を編入し、翌二十二年四月二區を合して市の區域とした。同三十五年三月葛野郡大內村字東鹽小路、西九條を編入し、大正七年四月愛宕郡田中、白川、下鴨、鞍馬口、野口、上賀茂の一部、大宮の一部、葛野郡衣笠、朱雀、大內、七條、紀伊、柳原、東九條、上鳥羽の一部及び深草の一部の各町村を編入し、市域が頗る擴まつた。昭和四年四月上京、下京の二區を分割して、新に中京、左京、東山の三區を增設した。また同六年四月、二十七市町村を合倂して、右京、伏見の二區を增設し、面積は六〇方粁餘から二八九粁方餘となつた。編入市町村の中、愛宕郡上賀茂、大宮、鷹峰の三村は上京區に、同郡修學院、松ケ崎の二村は左京區に、宇治郡山科町は東山區に、紀伊郡吉祥院、上鳥羽の二村は下京區に合倂し、葛野郡嵯峨町及び花園、太秦、西院、梅ケ畑、梅津、京極、松尾、桂、川岡の九村は右京區とし、伏見市、紀伊郡深草町及び竹田、堀內、下鳥羽、橫大路、納所、向島、宇治郡醍醐の七村は伏見區とした。

市の人口は昭和五年の國勢調査に據ると約七十七萬であるが、二十七市町村の編入によつて約九十五萬となり、人口の多きこと我が國の都市中第三に位し、大正十四年の約六十八萬、同九年の約五十九萬に比して、頗る增加して居る。しかし人口の密度は小さい。

市は上京、下京、左京、右京、中京、東山、伏見の七區に分かれ、中京區は中部に、上京區はその北に、下京區は南に、左京區、東山區は南北に連りてこれ等の東に、右京區は西にある。また伏見區は下京、東山二區の南にあつて、市の最南部を占める。

市は天皇御卽位の大禮及び大嘗會を行はせられる特別な都會である。この地は佛敎諸宗派の本山が多くあるので、宗敎上の大中心となり、名勝舊蹟の觀光を兼ねて、來集する旅客所謂「お上りさん」が夥しい。また大學その他數多の學校があるので、學藝の一中心ともなつて居る。產業は古來美術工藝に秀で、槪して小規模であるが、機械を應用する大工場も近年次第に增加する。

市は古來工藝地として知られ、西陣織、京染、刺繍、陶磁器、漆器、扇子、團扇等が重要產物である。伏見は酒の釀造を以て名高く、洛北峨嵯方面には數ケ所に映畫製作所があり、また市域內に約二〇〇アールの農耕地がある。

市の中央部、往古の平安京にあたる部分は、道路槪ね南北或は東西に走つて、碁盤の目の如く正しく、その幅一般に狹いが、中には近年擴張されたものもある。南北に通ずる縱通と東西に通ずる橫通の交叉點を基準として地物の所在點を現はし、縱通にて北行するを上ル、南行するを下ルと云ひ、東西に通ずる橫通には東に入る、西に入ると云ふ。繁華な街路を擧げると、縱通に河原町通、寺町通、烏丸通等、橫通に三條通、四條通等がある。これ等の中四條通は首位を占め、新式の大建築少からず、その寺町通から河原町通に至る閒卽ち御旅町と呼ばれる部分は歡樂境新京極に連つて熱閙京都第一である。三條通は四條通の北に竝行し、嘗て上京、下京の境であつたこともある。市の里程元標は三條烏丸にある。以上の外、堀川通、大宮通、千本通、七條通等にも殷賑な所がある。

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