本妙寺

本妙寺[日蓮宗]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

上熊本駅の西約1km、熊本駅からは北5.5km、市内花園町にあり、自動車の便があります。発星山と称し、京都本圀寺末の有名な巨刹で、末寺は47あります。加藤清正がまだ大阪にいた頃、帰依僧日真上人を開山として、先考清忠のために本妙寺を建て、後肥後の国主となることとなりこれを熊本城内に移し、江戸時代前期の元和2年(1616年)忠広がさらに清正の廟地である中尾山の現地に移建しました。明治10年(1877年)西南戦争で薩軍の一部が拠点とし、そのために兵火に罹って伽藍すべて焼失し、現在の堂宇はその後の建築です。

上熊本駅から少し南にある鉄路を踏切ると、幅の広い長さ約500mの参道があります。参道の終点に宏大な石段があり、石段を上ると荘麗な仁王門が高くそびえています。鉄筋コンクリート造、大正8年(1919年)の建立、額の文字発星山は久邇宮邦彦王殿下の御染筆です。仁王門からさらに300mの参道があって桜馬場と呼ばれ、花の名所で、両側に院坊が軒を並べています。馬場が終われば、数百段の石段があって、俗に胸突がんぎと呼ばれています。がんぎは熊本の方言で、石段を意味します。現在はこの石段の左右に160段あまりの石段が設けられ、楽に廟前へ参進することができます。がんぎには大小の石灯籠が数百と並び、左右に商店、旅館が軒を連ね、昼なお暗い程に森林が繁っています。

胸突がんぎを登りきったところは浄地廟すなわち清正廟のある霊域で、清正は江戸時代前期の慶長16年(1611年)10月ここに葬られました。漆塗の中門には、三条実美の筆になる浄地廟の額が仰がれます。中門を潜れば拝殿があり、その奥に御霊屋があります。廟域には事務所をはじめ、数棟の堂宇、塔柱等が立ち、鳩舎もあります。拝殿や拝殿横の籠り堂には、遠近から参詣の善男善女が籠って、題目の声、太鼓の音喧囂を極めています。廟の北側には大木土佐守兼能、南側には朝鮮人金宦の墓があり、いずれも清正に殉じたものです。参拝者は年中多いですが、特に7月23・24日の頓写会、春秋の彼岸には、終夜多くの人が訪れます。

本妙寺の本堂は胸突がんぎを下った左側にある大建築で、山門には東郷元帥筆勅願道場の文字が読まれます。慶長10年(1605年)後陽成天皇は本寺に綸旨を賜り、勅願道場となりました。堂前には元和7年(1621年)熊本城内から移した十三重の古塔や、寛政4年(1792年)雲仙岳崩壊の大津浪の際における溺死万霊供養塔等があります。本堂の右隣に宝物館があって観覧ができます。

  • 宝物
  • 短刀[国宝] 光世の銘があり、細川斉茲の寄進状があります。
  • 安南国書 紙本墨書 弘定10年5月拾染日および弘定11年5月24日の日付があります。
※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行
本妙寺参道 本妙寺境内図

令和に見に行くなら

名称
本妙寺
かな
ほんみょうじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
熊本県熊本市西区花園4-13-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

上熊本驛の西約一粁、熊本驛からは北五粁半、市內花園町にあり、自動車の便がある。發星山と稱し、京都本圀寺末の有名な巨刹で、末寺は四十七ある。加藤淸正が未だ大阪にあつた時、歸依僧日眞上人を開山として、先考淸忠のために本妙寺を建て、後肥後の國主となるに及んで、これを熊本城內に移し、元和二年忠廣更に淸正の廟地である中尾山の現地に移建した。明治十年西南役に薩軍の一部の據るところとなり、爲に兵燹に罹りて伽藍悉く燒失し、現時の諸堂宇はその後の建築である。

上熊本驛から少し南にある鐵路を踏切ると、幅の廣い長さ約五〇〇米の參道がある。參道の盡きるところに宏大な石段があり、石段を上ると、莊麗な仁王門が高く聳えて居る。鐵筋コンクリート造、大正八年の建立、額の文字發星山は久邇宮邦彥王殿下の御染筆である。仁王門から更に三〇〇米の參道があつて櫻馬場と呼ばれ、花の名所で、兩側に院坊が軒を竝べて居る。馬場が終れば、數百級の石段があつて、俗に胸突がんぎと呼ばれて居る。がんぎは熊本の方言で、石段を意味する。今はこの石段の左右に百六十段餘の石段が設けられ、樂に廟前へ參進することが出來る。がんぎには大小の石燈籠幾百となく竝び、左右に商店、旅館が軒を連ね、晝尙暗い程に森林が繁つて居る。

胸突がんぎを登り盡したところは淨地廟卽ち淸正廟のある靈域で、淸正は慶長十六年十月こゝに葬られた。漆塗の中門には、三條實美の筆に成る淨地廟の額が仰がれる。中門を潛れば拜殿があり、その奧に御靈屋がある。廟域には事務所を始め、數棟の堂宇、塔柱等が立ち、鳩舍もある、拜殿や拜殿橫の籠り堂には、遠近より參詣の善男善女が籠つて、題目の聲、太鼓の音喧囂を極めて居る。廟の北側には大木土佐守兼能、南側には朝鮮人金宦の墓があり、何れも淸正に殉じたものである。參拜者は年中多いが、殊に七月二十三、四日の頓寫會、春秋の彼岸には、終夜雜沓を極める。

本妙寺の本堂は胸突がんぎを下つた左側にある大建築で、山門には東鄕元帥筆敕願道場の文字が讀まれる。慶長十年後陽成天皇は本寺に綸旨を賜うて、敕願道場となつた。堂前には元和七年熊本城內から移した十三重の古塔や、寬政四年雲仙嶽崩壞の大津浪の際に於ける溺死萬靈供養塔等がある。本堂の右鄰に寶物館があつて縱覽が出來る。

  • 寶物
  • 短刀[國寶] 光世の銘があり、細川齊茲の寄進狀がある。
  • 安南國書 紙本墨書 弘定十年五月拾染日及弘定十一年五月二十四日の日附がある。

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