熊本城

熊本城址[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

熊本駅の東北1.5km、市のほぼ中央に位置し、市電および自動車の便があります。この城は室町時代の文明の頃(1469~1487年)、菊池氏の一族出田秀信が、現在の千葉城址の地に築城したことにはじまり、次いで大永享禄の頃(1521~1532年)鹿子木親員が本城の西南端に築城しました。現在の古城がこれです。その後天正15年(1587年)豊臣秀吉がこれを佐々成政に与えましたが、翌16年(1588年)成政誅死の後加藤清正が入部し、慶長6年(1601年)茶臼山と称した丘陵を中心に千葉、古城両城の地域にわたって大規模な築城を行い、7年を費して同12年(1607年)落成し、隈本の字を改めて熊本としました。その後寛永9年(1632年)嗣子忠広の時改易され、豊前小倉の城主細川忠利が代わって城主となり、以来子孫が跡を継いで居城し維新に至りました。明治初年(1868年)ここに鎮台を置き、10年(1877年)西南戦争に際して薩軍が城を囲み、陸軍少将谷干城がこれを死守し、籠城50日以上をもってついに賊兵を退けましたが、この際城中から発火して、三の天守(宇土櫓)、一、二の城門、倉庫等を残して一の天守、二の天守以下櫓楼多く焼け落ちて旧観を失いました。宇土櫓以下11箇所の櫓および城門、長塀が国宝に指定され、現在第六師団司令部が置かれています。坪井川に架けた行幸橋を渡り、行幸坂(南坂)を進んで右手に谷村計介銅像を見、左に明治9年(1876年)敬神党乱のあった旧砲兵営前を過ぎ、右に備前堀のそばを過ぎ、右折すれば第六師団司令部で、正門を潜れば本丸跡で数寄屋丸門跡を経て宇土櫓前に出ます。

宇土櫓[国宝] 三層櫓、内部五層、地階一層あり、単層の続櫓をもって二階櫓に連続しています。屋根総本瓦葺。もと宇土にあった小西行長の居城の櫓で、小西滅亡後加藤清正がこれを遷して三の天守としたものです。現存桃山時代の天守閣のうち初期の様式を示したもので、その屋葢の流れは破風に多少起こりを作っているのは異例で、かえって堅樸荘重な外概を与えています。昭和2年(1927年)大改修を行い、同年11月以来公開しました。各層内部に熊本城および西南戦争に関する遺品、写真類を陳列しています。

宇土櫓を出れば直ぐ左に一の天守閣の石塁が残り、くらがり門跡を過ぎれば左に師団司令部の建物があり、イチョウの老株は清正が築城記念の手植と伝え、高く繁茂しています。右折すれば午砲台になっている月見櫓跡あり、十八間櫓[国宝]の下を過ぎ司令部前から左へ千葉城址に通じる下り坂に不開門[国宝]あり、兵火を免れて旧形を完全に保存している唯一の城門で、屋根は左端入母屋造、右端切妻造の脇戸付楼門です。本丸跡の西側は二の丸跡で陸軍教導学校あり、細川重賢が建てた時習館のあった場所で、この北辺に東西に長く続いている百間石垣は二の丸北部の門で、二箇所に枡形門が設けられています。石塁の下を過ぎ東に進み監物櫓(新堀櫓)[国宝]の下を通って加藤神社のそばから京町を経て植木方面に至る国道は、加藤清正が開鑿したという凹道です。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行
熊本城宇土櫓 熊本城址

令和に見に行くなら

名称
熊本城
かな
くまもとじょう
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
当時天守はなく、昭和35年(1960年)に再建されたものです。平成28年(2016年)の熊本地震で被災しました。
住所
熊本県熊本市中央区
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

熊本驛の東北一粁半、市のほゞ中央に位し、市電及自動車の便がある。この城は文明の頃、菊池氏の一族出田秀信、今の千葉城址の地に築城せるに濫觴し、次いで大永享祿の頃鹿子木親員本城の西南端に築城した、今の古城これである。その後天正十五年豐臣秀吉これを佐々成政に與へたが、翌十六年成政誅死の後加藤淸正入部し、慶長六年茶臼山と稱した丘陵を中心に千葉、古城兩城の地域に亙りて大規模の築城をなし、七箇年の日子を費して同十二年落成し、隈本の字を改めて熊本となした。然るに寬永九年嗣子忠廣の時改易せられ、豐前小倉の城主細川忠利代りて城主となり、爾來子孫相繼ぎて居城し維新に至つた。明治初年こゝに鎭臺を置き、十年西南役に際して薩軍城を圍み、陸軍少將谷干城これを死守し、籠城五十有餘日逐に賊兵を卻けたが、この際城中より發火して、三の天守(宇土櫓)、一、二の城門、倉庫等を殘して一の天守、二の天守以下櫓樓多く焚毀して舊觀この時に失つた。宇土櫓以下十一箇所の櫓及城門、長塀が國寶に指定され、現時第六師團司令部が置かれて居る。坪井川に架した行幸橋を渡り、行幸坂(南坂)を進みて右手に谷村計介銅像を見、左方に明治九年敬神黨亂のあつた舊砲兵營前を過ぎ、右に備前堀の傍を過ぎ、右折すれば第六師團司令部で、正門を潛れば本丸址で數寄屋丸門址を經て宇土櫓前に出る。

宇土櫓[國寶] 三層櫓、內部五層、地階一層あり、單層の續櫓を以て二階櫓に聯續して居る。屋根總本瓦葺。もと宇土に在つた小西行長の居城の櫓で、小西滅亡後加藤淸正これを遷して三の天守となしたものである。現存桃山時代の天守閣のうち初期の樣式を示したもので、その屋葢の流れは破風に多少起りを作つて居るのは異例で、卻つて堅樸莊重な外槪を與へて居る。昭和二年大改修を行ひ、同年十一月以來公開した。各層內部に熊本城及西南役に關する遺品、寫眞類を陳列して居る。

宇土櫓を出づれば直ぐ左に一の天守閣の石壘存し、くらがり門址を過ぐれば左に師團司令部の建物あり、銀杏樹の老株は淸正が築城記念の手植と傳へ、亭々として繁茂して居る。右折すれば午砲臺に成つて居る月見櫓址あり、十八閒櫓[國寶]の下を過き司令部前から左へ千葉城址に通ずる下り坂に不開門[國寶]あり、兵火を免れて舊形を完全に保存して居る唯一の城門で、屋根は左端入母屋造、右端切妻造の脇戶付樓門である。本丸址の西側は二の丸址で陸軍敎導學校あり、細川重賢が建てた時習館のあつた場所で、この北邊に東西に長く續いて居る百閒石垣は二の丸北部の門で、二箇所に枡形門が設けられて居る。石壘の下を過ぎ東して監物櫓(新堀櫓)[國寶]の下を通つて加藤神社の傍から京町を經て植木方面に至る國道は、加藤淸正が開鑿したと云ふ凹道である。

熊本のみどころ