備中高松城址

高松城址[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

中国鉄道稲荷駅の北約0.5km、高松町高松にあります。清水宗治の居城跡で、もと本丸、二の丸、三の丸ならびに侍屋敷を備え、大沼を自然の城濠とした平城です。毛利氏の苦心経営となり、当時要害とされましたが、安土桃山時代の天正10年(1582年)4月羽柴秀吉が備中に攻め入り、付近にあった毛利氏の属城4か所を破って本城に迫ります。秀吉は、黒田如水の献策に基づいてこの城を水攻にしようとして5月8日築堤の工を起し、12日間で完成し、西に流れる足守川の流れをその内部に注ぎましたが、長雨によって河水はたちまち増水して、6月2日全城が水に浸ることとなり、宗治はついに意を決して兄、月清とともに6月4日自尽して落城したという戦蹟です。濠跡は一段低く田圃となっているなかに本丸跡があり、水田のなかにやや小高く松林となっていて、石塁を残存し、天守閣跡と伝わる場所があり、中央に現在宗治の首塚と呼ばれる五輪塔があります。そばに明治9年(1876年)清水清太郎の建立で毛利元徳の書になる記念碑があり、二の丸跡は本丸跡の南にあり現在は水田となっていて、三の丸跡はよく旧態を残しています。

水攻築堤跡 もと城の南にあって東西二十四町にわたって築かれたところで現在東端の高松町字蛙ヶ鼻および西端の生石村福崎の両か所に遺跡を残存しています。東端の蛙ヶ鼻の築堤の残部は長さ22m、基底において幅13m、高さ4mあり、西端の福崎においては副堤の跡が残り、長さ30m、幅5m、高さ2mあり、本堤防はすでに鉄道線路の下に没し副堤の北部はさらに鉄路を越えて北に痕跡を留め、その側方から杭の並立しているのを見えるところがあります。堤跡は城址とともに史蹟に指定されています。

※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行

令和に見に行くなら

名称
備中高松城址
かな
びっちゅうたかまつじょうし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
岡山県岡山市北区高松
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

中國鐵道稻荷驛の北方約半粁、高松町高松にある。淸水宗治の居城址で、もと本丸、二の丸、三の丸竝に侍屋敷を備へ、大沼を以て自然の城濠とした平城である。毛利氏の苦心經營にかゝり、當時要害と稱せられたが、天正十年四月羽柴秀吉備中に攻め入り、附近に在つた毛利氏の屬城四ケ所を拔きて本城に迫る。秀吉、黑田如水の獻策に基きてこの城を水攻にせんとして五月八日築堤の工を起し、十二日閒にして功成り、西方に流るゝ足守川の流れをその內部に注いだが、折柄の霖雨に河水たちまち增溢して、六月二日全城をひたすに至り、宗治遂に意を決して兄、月淸と共に六月四日自盡して城陷つた戰蹟である。濠址は一段低く田圃となつて居るうちに本丸址あり、水田中稍々小高く松林をなし、石壘を殘存し、天守閣址と傳ふる場所あり、中央に今宗治の首塚と稱する五輪塔がある。側に明治九年淸水淸太郞の建立で毛利元德の書に成る記念碑あり、二の丸址は本丸址の南に續き今水田と化し、三の丸址はよく舊規を存して居る。

水攻築堤址 もと城の南に於て東西二十四町に亙りて築かれた所で今東端の高松町字蛙ケ鼻及西端の生石村福崎の兩ケ所に遺址を殘存して居る。東端の蛙ケ鼻の築堤の殘部は長二二米、基底に於て幅一三米、高さ四米を有し、西端の福崎に於ては副堤の址を存し、長さ三〇米、幅五米、高さ二米あり、本堤防は既に鐵道線路の下に沒し副堤の北部は更に鐵路を越えて北方に痕跡を留め、その側方から杭の竝立して居るのを見ることがある。堤址は城址と共に史蹟に指定されて居る。

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