岡山城

岡山城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

岡山駅の東1.5km、電車御城下下車、市の東部に位置し、東側に旭川が外濠になって巡っています。城は城楼を黒く塗ってあるために烏城と呼ばれ、また金烏城とも称され、現在、天守閣を始め槽、門等の遺構が残り、かつ石塁および濠が旧態を遺存しています。城は安土桃山時代の天正元年(1573年)宇喜多直家の築造となり、その後慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで直家の子秀家が敗れて没落し、徳川氏は小早川秀秋を封じましたが、同8年(1603年)池田忠継が封じられ、次いで弟忠雄がこれを受け、その子光仲の時因幡鳥取に移封され、寛永9年(1632年)池田輝政の嫡孫光政が鳥取からここに入って以来子孫相継ぎ城主となり、明治維新に至りました。現在本丸、二の丸の一部を遺して他は一般人家となりました。城の遺構は池田侯爵家の管理に属していますが、有料で公開しています。岡山第一中学校の正門(内下馬門)を入れば校舎、講堂のあたりはもとの表書院で、その東一段高いところを本段と呼び、その東北隅に天守閣があります。

天守閣[国宝] 三重六層で初層の平面は不正五角形となっていますが、上層に至るにしたがって次第に変化し、四層以上は矩形となり、窓は連子窓ですが、最上両層は火灯窓を用い天井を張っています。全体の意匠は自在でかつ大胆に、右に低い重層の塩蔵を附属し、いわゆる複合天守となり、屋根は総本瓦葺、入母屋造、2階の北面と5階の南北両面とに唐破風を交え、塩蔵の南面にのみ切妻を用いています。塩蔵は一種の倉庫で天守閣の入口となり、その2階は天守閣の1階の床高と同じになっています。閣は秀家が角南隼人を奉行とし、中村次郎兵衛に命じて築営させたもので、文禄3年(1594年)起工、慶長2年(1597年)の完成で、その後数次の修理を経て新材の混用も見られるが大体慶長年間の遺構です。

月見櫓[国宝] 本丸の西北隅に位置し、天守閣と東西に相対します。二層の隅櫓で、屋根本瓦葺、一部地階を有しています。元和寛永の頃池田忠雄の時の築営であるといいます。

西丸西手櫓[国宝] 西丸の西北隅の櫓であって内山下小学校構内の西側にあり、二層櫓、屋根本瓦葺で慶長年間の遺構です。

石山門[国宝] 雄蔵門または渋御門と称し、小学校の南にあり、西丸から二の曲輪に出たところにあり、矩折櫓門で屋根両端入母屋造本瓦葺、現存する慶長築営の唯一の城門です。

※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行
岡山城 岡山城

令和に見に行くなら

名称
岡山城
かな
おかやまじょう
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
昭和20年(1945年)の空襲により天守などを焼失、戦後に再建されています。
住所
岡山県岡山市北区丸の内
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の東一粁半、電車御城下下車、市の東部に位し、東側に旭川が外濠に成つて繞つて居る。城は城樓を黑く塗つてある爲に烏城と呼ばれ、また金烏城とも稱せられ、今、天守閣を始め槽、門等の遺構を存し、且、石壘及濠湟が舊態を遺存して居る。城は天正元年宇喜多直家の築造にかゝり、その後慶長五年關ケ原役に直家の子秀家敗れて沒落し、德川氏小早川秀秋を封じたが、同八年池田忠繼封ぜられ、尋で弟忠雄これを承け、その子光仲の時因幡鳥取に移封せられ、寬永九年池田輝政の嫡孫光政鳥取からこゝに入りて爾來子孫相繼ぎ城主となり、明治維新に至つた。今本丸、二の丸の一部を遺して他は一般人家となつた。、城の遺構は池田侯爵家の管理に屬して居るが、有料で公開して居る。岡山第一中學校の正門(內下馬門)を入れば校舍、講堂の邊はもとの表書院で、その東一段高き所を本段と稱し、その東北隅に天守閣が存する。

天守閣[國寶] 三重六層で初層の平面は不正五角形を呈して居るが、上層に至るに隨つて次第に變化し、四層以上は矩形をなし、窓は連子窓なれど、最上兩層は火燈窓を用ゐ天井を張つて居る。全體の意匠自在で且大膽に、右方に低い重層の鹽藏を附屬し、所謂複合天守を成し、屋根總本瓦葺、入母屋造、二階の北面と五階の南北兩面とに唐破風を交へ、鹽藏の南面にのみ切妻を用ゐて居る。鹽藏は一種の倉庫で天守閣の入口をなし、その二階は天守閣の一階と床高を同じうして居る。閣は秀家が角南隼人を奉行とし、中村次郞兵衞に命じて築營せしめたもので、文祿三年起工、慶長二年の完成で、その後數次の修理を經て新材の混用も見られるが大體慶長年閒の遺構である。

月見櫓[國寶] 本丸の西北隅に位し、天守閣と東西に相對する。二層の隅櫓で、屋根本瓦葺、一部地階を有して居る。元和寬永の頃池田忠雄の時の築營であると云ふ。

西丸西手櫓[國寶] 西丸の西北隅の櫓であつて內山下小學校構內の西側にあり、二層櫓、屋根本瓦葺で慶長年閒の遺構である。

石山門[國寶] 雄藏門または澁御門と稱し、小學校の南にあり、西丸より二の曲輪に出づる所にあり、矩折櫓門で屋根兩端入母屋造本瓦葺、現存する慶長築營の唯一の城門である。

岡山・吉備路のみどころ