国清寺
國淸寺[臨濟宗妙心寺派]
昭和初期のガイド文
岡山駅の東南3km、電車放送局筋下車、市内小橋町にあります。江戸時代前期の慶長9年(1604年)池田輝政が姫路在城の時男山の麓に創立した寺で、初め法源寺と号し、同18年(1613年)輝政の法号によって国清寺と改め、寛永9年(1632年)池田光政、封を岡山に移す際にともに移建して大華和尚を開山としました。曹源寺とともに池田家の菩提所で寺域広大、松杉が鬱茂しています。堂後に池田家累代の霊屋があります。なお、寺の西隣に支院清泰院があり、光政が因幡から入部してから忠雄、忠継の墓を一劃して建てました。忠雄の墓は俗に芋石(芋墓)といい、台石高さ2m、石塔3mあまりを有する巨大なものです。
※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 国清寺
- かな
- こくせいじ
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 状態違うが見学可
- 備考
- 昭和20年(1945年)の空襲により堂宇を焼失、戦後の再建です。
- 住所
- 岡山県岡山市中区小橋町2-4-28
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
驛の東南三粁、電車放送局筋下車、市內小橋町にある。慶長九年池田輝政姬路在城の時男山の麓に創立した寺で、初め法源寺と號し、同十八年輝政の法號によりて國淸寺と改め、寬永九年池田光政、封を岡山に移すの際に共に移建して大華和尙を開山とした。曹源寺と共に池田家の菩提所で寺域廣大、松杉鬱茂して居る。堂後に池田家累代の靈屋がある。尙、寺の西鄰に支院淸泰院あり、光政因幡より入部してから忠雄、忠繼の墓を一劃して建てた。忠雄の墓は俗に芋石(芋墓)と云ひ、臺石高さ二米、石塔三米餘を有する巨大なものである。