春日神社(春日大社)

春日神社

昭和初期のガイド文

[官幣大社] 駅から東へ約1km進むと、興福寺の境内に接して一の鳥居があります。そこから本社までさらに1km進むと、春日山のふもとに千年の神木が生い茂る中に、朱塗りの回廊や社殿が美しい色調を見せています。

本社は奈良時代の神護景雲2年(768年)に現在地に創建されたもので、常陸国鹿島の武甕槌命、下総国香取の経津主命、河内国枚岡の天児屋根命および比売神の四柱の神様を祀っています。平安時代の延喜の制では名神大社に列せられ、後に二十二社の一つに加えられました。本社はまた藤原氏の氏神として、天皇の行幸や皇族の御幸も数多くあり、特に藤原氏の公卿の参詣が多く見られました。また興福寺は藤原氏の氏寺として摂関家の帰依が非常に厚く、社寺が隣り合わせで密接な関係を持ち、常にその盛衰を共にしてきました。

本社の神木も歴史上有名なものですが、神人や興福寺の僧侶たちが強訴を行う際には、必ず神木を奉じて京都へ向かったもので、延暦寺の僧侶たちの日吉神社の神輿と共に、朝廷に対する大きな脅威となっていました。

春日祭は古来、2月11日の上申日に行われ、賀茂祭と共に年中行事の重要な儀式でしたが、現在は3月13日と定められ、勅祭として執り行われています。

一の鳥居をくぐると参道の左右に石灯籠が並び、進むにつれてその数が増えていきます。馬止めの橋から左に折れ、二の鳥居をくぐると朱塗りの楼門があり、その中に四つの神殿が並んで建っています。建物は全体的に昔のままではありませんが、神殿の他に車舎、着到殿、幣殿、直会殿、移殿などがあり、幸いにも昔の形式をよく伝えています。車舎[国宝]は検非違使屋とも呼ばれ、二の鳥居の所の道の右側に北面して建っています。ここから下乗りとなり、勅使参向の際などに車を置くところです。五間三面単層、切妻造り、檜皮葺き、全て素木造りの吹き放しの建物です。平安時代の貞観年間に創建され、現在のものは江戸時代の文久年間に再建されましたが、よく平安時代の形態を伝えています。

着到殿[国宝] 車舎からさらに進むと、参道左側の石段上に南面して建っています。勅使に従う役人たちがここで員数を記して神前に詣でることからこの名がつきました。創立は平安時代の延喜16年(916年)と言われています。七間三面、単層、屋根東妻は入母屋、西妻は切妻造り、檜皮及び棧瓦葺き、木割が太く、全て素木造りで軽快な古式を保った江戸時代再建の建築です。

南門及び四面回廊[国宝] 着到殿からさらに進むと南面して建っています。三間一戸、屋根入母屋造り檜皮葺き、全て朱塗りの楼門です。平安時代の治承2年(1178年)の創建で、江戸時代に古の様式に準じて造られたものです。四面回廊は南から北へ地形に従って登っていき、途中東回廊には影向門、西回廊には慶賀門、清浄門、内侍門の三門が開いています。北回廊には中央に藤浪門があり、南回廊には南門と並んで梅門及び桜門の二門が開いています。これも江戸末期に根本的な大修理を経たものです。

幣殿[国宝] 南門を入ると正面に建っています。平安時代の貞観年間の創建と伝えられていますが、現在のものは江戸時代の文久年間の再建で、五間三面、単層、素木造り、屋根は切妻、檜皮葺き、柱間吹き抜け、内部土間の建物です。

直会殿[国宝] 幣殿の左手に接している長い建物で、八間四面、単層素木造り、屋根は北切妻、南入母屋、檜皮葺きの建築で、これも平安時代の貞観年間の創建と伝えられ、江戸時代の文久年間の再建です。昔は祭事の際に上卿や内侍などが参向した際に儀式を執り行った殿舎です。また法華八講を修されたので八講屋とも呼ばれました。

中門及び東西北御廊[国宝] 幣殿の奥に一段高く建っています。一間一戸、入母屋造り、檜皮葺きの楼門で、前面に向唐破風が突出しています。藤原時代の古式を伝えた江戸時代の建築です。東西北御廊は中門の両側面を起点として、東及び西に一直線に延び、東廊は山麓に留まり西廊は曲折して北に伸び本殿の後方に終わり、本殿を囲んでいます。これも江戸時代の建築です。

本殿[国宝] 中門の内に南面して、東の第一殿より西へ第四殿まで同型の四棟の神殿が並び、各殿とも一間社春日造りで、各社殿間は脇塀でつながれ、屋根は檜皮葺き、棟の前後にやや反りのある二本の千木と上に二個の勝男木を置き、朱塗りの丸柱を建て、舟肘木を用い、前面向拝下より昇る勾欄付きの木階があります。本殿こそいわゆる春日造りの典型をなすものです。春日造りは切妻、妻入りの建物の前に庇がついたもので、屋根の反りや木部に朱または黄土を塗ることは、仏寺建築の影響が神社建築に及んだ結果で、著しく優美で典雅な趣が見て取れます。本殿は鎌倉時代の嘉禎の頃より二十年造替の例となり、五十回余りの造替が行われ、江戸時代の文久2年(1862年)に他の殿舎と共に改築されましたが、昭和6年(1931年)にさらに造替が行われ、旧様式を伝えながら面目を新たにしました。

捻廊[国宝] 西側の移殿の中央から本殿御廊へ斜めに昇る登廊で、江戸末期の建築です。

移殿[国宝] 本殿の西側にあって東面し、捻廊によって北御廊を通り本殿に昇ることができます。本殿造替の際の仮殿遷座の場所で、内侍所とも呼ばれます。五間三面、切妻造り、単層檜皮葺き、平安時代の貞観年間に創建されたものを江戸末期に再建したものですが、よく平安時代の風格を伝えています。

摂社若宮神社 本社の南約200mにあり、平安時代末期の崇徳天皇の長承4年(1135年)の鎮座と伝えられています。拝殿には巫女が白い装束に緋の袴をつけ、檜扇を持って控えており、参拝者の求めに応じて鈴を持ち優雅な神楽を奏し、「若宮の御影映らふ真澄鏡曇りあらせで顧み給へ、お神楽こそめでたう思し召せ いのち長うちうようの添ひて何事も思ふ所望にかなへさせ給へ、若宮の御影映らふ真澄鏡曇りあらせで顧み給へ」と詠う歌は二条天皇の御製だと言われています。

当社の祭典を霜月御祭と称し、崇徳天皇の保延2年(1136年)に始まり、古来大和一国で一番盛んな祭で、現在は12月17日に行われます。当日午前0時の真夜中に一の鳥居内の御旅所に神幸があり、正午頃から装束作法ともに珍しい行列が練り出し、それが終わると神前の儀が始まり、午後12時まで続いてさまざまな行事が行われますが、中でも天平の轟太鼓を打ち鳴らし、かがり火をたいて芝生の壇上で行われる舞楽は最も風情があります。神事が終わって庭燎を打ち消し還幸となり、翌日能楽が行われますが、これは後日の能と呼ばれています。

若宮本殿[国宝] 一間社春日造りで、構造様式は春日本社と同一ですが、この本殿の前には明神鳥居が立ち、瑞垣が囲っています。これに続いて拝舎があり、一間二面両流造り檜皮葺き、本殿と共に江戸時代の文久年間の再造です。

さらに細殿、御廊、神楽殿が北から南に接続して一棟にまとめられ、東面して本殿と相対しています。十間三面切妻造り、檜皮葺き、円柱舟肘木、木割が細く、よく平安時代の風格を伝えた治承頃の古建築です。この建物の南に手水屋があります。五間二面、切妻造り、檜皮葺き、桃山時代の建築で、国宝に指定されています。

  • 宝物
  • 舞楽面[国宝]12面 木彫著色、面の種類は皇仁、新鳥蘇、地久、納曾利、昆崙八仙、散手、貴徳鯉口、採桑老の8種、そのうち新鳥蘇は4面、納曾利は2面あり、また次の6面には裏面に銘文があります。
  • 地久面、墨書銘「元暦ニ年乙巳ニ月日」
    新鳥蘇面、墨書銘「元暦ニ年乙巳二月日仏師印勝」他の一面朱漆銘「仏師印勝興福寺新鳥蘇元暦ニ年乙巳二月日」
    貴徳鯉口面、刻銘「興福寺天文六丁酉四月十九日」
    散手面、刻銘「以元興寺本模之仏師定慶寿永三年二月日」
    採桑老面、烙印「三上越前」
  • 右の銘文によって鎌倉以前の旧様式、鎌倉の新様式、江戸期の様式などそれぞれの時代の特色が窺えるのが興味深いです。
  • なお12面のうち2面は奈良帝室博物館へ出陳。
  • 轟太鼓[国宝]1対 縁、木製透彫著色、左方は縁高約3.9m、黒漆金箔押双龍、鼓面金箔押三巴、縁の頂上に金箔押日象を挿んでいます。右方は縁高約4m、黒漆金箔押鳳凰、鼓面銀二つ巴、縁の頂上に銀箔押月象を挿み、共に朱漆勾欄付黒漆受台を檜製の飾台に載せています。社伝に天平年間の製作と称しています。
  • 楽所補任[国宝]2巻 紙本墨書、前巻に嘉禎2年正月日書写の奥書があります。
  • 楽書[国宝]紙本墨書 5巻
  • 以下奈良帝室博物館へ出陳
  • 赤糸威大鎧[国宝]1領
  • 兜、大袖付、伝源義経寄附
  • 黒韋威矢筈札胴丸[国宝]1領
  • 兜、大袖付、菊金具、楠正成寄進、南北朝時代
  • 黒革威胴丸[国宝]1領
  • 兜、大袖付、菊金具、楠正成寄進、南北朝時代
  • 樺糸威鎧[国宝]兜付 1領
  • 籠手[国宝]伝源義経所用 1双
  • 赤銅造太刀[国宝]友成作 1口
  • 耳木菟短刀[国宝]1口
  • 菊造短刀[国宝]1口
  • 太刀[国宝]1口
  • 銘備州長船住家助、永享8年2月日近衛忠熙忠房寄進状1通附属
※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
春日神社(春日大社)
かな
かすがじんじゃ(かすがたいしゃ)
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
奈良県奈良市春日野町160
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

[官幣大社] 驛の東一粁餘、興福寺の境內に接して一の鳥居がある。それから本社まで更に一粁、春日山麓、千年の神木繁る中に、丹塗の廻廊殿舍が美しい色調を呈して居る。

本社は神護景雲二年、し今の地に創建されたもので、祭神は常陸鹿島の武甕槌命、下總香取の經津主命、河內枚岡の天兒屋根命及比賣神の四神を祀つて居る。延喜の制に於ては名神大社に列し、後二十二社の一に加つた。本社はまた藤原氏の氏神として、歷世行幸御幸等の例少からず、殊に藤原氏公卿の參詣するものが多かつた。また興福寺が藤原氏の氏寺として攝關家の歸依頗る厚く、社寺相並んで唇齒の關係を持ち、常にその盛衰を共にした。

本社の神木も歷史上に有名なものであるが、神人及興福寺の僧徒等何事か强訴せんとする時は、必ず神木を奉じて入洛したもので、延曆寺僧徒の日吉の神興と共に朝廷に對する大なる脅威であつた。

春日祭は古來二月十一日の上申日に行はれたもので賀茂祭と共に年中行事の盛儀であつたが、今は三月十三日と定められ勅祭である。

一の鳥居を入ると參道の左右に石燈籠が列り、進むに從つてその數を增し、馬止の橋から左に折れ、二の鳥居をくゞると丹塗の樓門があり、その中に四つの神殿が相並んで建つて居る。總じて建物は昔の儘ではないが、神殿の外に車舍、着到殿、幣殿、直會殿、移殿等があり、幸によく昔の形式を傳へて居る。車舍[國寶]一に檢非違使屋とも稱し、二の鳥居の所道の右側に北面して建つて居る。これより下乘で、勅使參向の際などに車を置くのである。五間三面單層、切妻造、檜皮葺、全部素木造、吹放の建物である。貞觀年間の創建で、今のは文久年間に再建されたが、よく平安時代の形態を傳へて居る。

着到殿[國寶] 車舍から更に進むと、參道左側の石壇上に南面して立つて居る。勅使に從ふ役人等が員數をこゝに記して神前に詣るのでかく名づけた。創立は延喜十六年と云ふ。七間三面、單層、屋根東妻は入母屋、西妻は切妻造、檜皮及棧瓦葺、木割太く、總素木造で輕快な古式を保つた江戶時代再建の建築である。

南門及四面廻廊[國寶] 着到殿から更に進むと南面して建つて居る。三間一戶、屋根入母屋造檜皮葺、總丹塗の樓門である。治承二年の創建で江戶時代に古の樣式に準じて造つたものである。四面廻廊は南から北へ地形に從つて登り行き、途中東廻廊には影向門、西廻廊には慶賀門、清淨門、內侍門の三門を開いて居る。北廻廊には中央に藤浪門があり、南廻廊には南門と並んで梅門及櫻門の二門を開いて居る。これも江戶末期に根本的大修理を經たものである。

幣殿[國寶] 南門を入ると正面に建つて居る。貞觀年間の創建と傳へて居るが、今のは文久年間の再建で、五間三面、單層、素木造、屋根は切妻、檜皮葺、柱間吹拔、內部土間の建物である。

直會殿[國寶] 幣殿の左手に接して居る長い建物で、八間四面、單層素木造、屋根は北切妻、南入母屋、檜皮葺の建築で、これも貞觀年間の創建と傳へ、文久年間の再建である。昔は祭時に上卿內侍等參向に際し儀式を執行した殿舍である。また法華八講を修せられたので八講屋とも稱した。

中門及東西北御廊[國寶] 幣殿の奧に一段高く建つて居る。一間一戶、入母屋造、檜皮葺の樓門で、前面に向唐破風が突出して居る。藤原時代の古式を傳へた江戶時代の建築である。東西北御廊は中門の兩側面を起點として、東及西に一直線に出で、東廊は山麓に留まり西廊は曲折して北に伸び本殿の後方に終り、本殿を圍んで居る、これも江戶時代の建築である。

本殿[國寶] 中門の內に南面して、東の第一殿より西へ第四殿まで同型の四棟の神殿が並び、各殿共一間社春日造にして、各社殿間は脇塀にて繫ぎ、屋根は檜皮葺、棟の前後に稍反りのある二本の千木と上に二個の勝男木を置き、朱塗り丸柱を建て、舟肘木を用ゐ、前面向拜下より昇勾欄付木階がある。本殿こそ所謂春日造の典型をなせるものである。由來春日造は切妻、妻入の建物の前に廂がついたので、屋根の反りや木部に丹または黃土を塗ることは、佛寺建築の影響が神社建築に及ぼした結果で、著しく優麗典雅の趣が看取せられる。本殿は嘉禎の頃より二十年造替の例となり、五十餘度の造替が行はれ、文久二年に他の殿舍と共に改築せられたが、近く昭和六年更に造替が行はれて、舊樣式を傳へながら面目を新にした。

捻廊[國寶] 西側の移殿の中央から本殿御廊へ斜に昇る登廊で、江戶末期の建築である。

移殿[國寶] 本殿の西側にありて東面し、捻廊によつて北御廊を通り本殿に昇ることが出來る。本殿造替の際假殿遷座の場所で一に內侍所と云ふ。五間三面、切妻造、單層檜皮葺、貞觀年間に創建されたものを江戶末期に再建したのであるが、よく平安時代の風格を傳へて居る。

攝社若宮神社 本社の南約ニ〇〇米にあり、崇德天皇長承四年の鎭座と傳ふ。拜殿に巫女が白き裝束に緋の袴をつけ檜扇を持ちて祇候して居て、賽者の需に應じて鈴を持ち優雅な神樂を奏し「若宮の御かげうつらふますかゞみくもりあらせでかへりみ給へ、おかぐらこそめでたうおぼしめせ いのちながうちうようのそひて何事もおもふ所望にかなへさせたまへ、若宮のみかげうつらふますかゞみくもりあらせでかへりみたまへ」と諷ふ歌は二條天皇の御製なりと云ふ。

當社の祭典を霜月御祭と稱し、崇德天皇の保延二年に始まり、古來大和一國で一番盛んな祭で、今は十二月十七日に行はれる。當日午前零時の眞夜半に一の鳥居內の御旅所に神幸があり、正午頃から服裝作法共に珍らしき行列が練出し、それが終ると神前の儀が始まり、午後十二時まで續いて色々のことが行はれるが、中にも天平の竈太鼓を打鳴し、篝火をたいて芝生の壇上で行はれる舞樂は最も風情がある。神事終りて庭燎を打消し還幸となる、翌日能樂が行はれるがこれは後日の能と云ふ。

若宮本殿[國寶] 一間社春日造で、構造樣式春日本社と同一であるが、この本殿の前には明神鳥居が立ち、瑞垣が繞つて居る、これに續いて拜舍があり、一間二面兩流造檜皮葺、本殿と共に文久年間の再造である。

更に細殿、御廊、神樂殿が北から南に接續して一棟に合せられ、東面して本殿と相對して居る。十間三面切妻造、檜皮葺、圓柱舟肘木、木割細く、よく平安時代の風格を傳へた治承頃の古建築である。この建物の南に手水屋がある。五間二面、切妻造、檜皮葺、桃山時代の建築で、國寶に指定されて居る。

  • 寶物
  • 舞樂面[國寶]十二面 木彫著色、面の種類は皇仁、新鳥蘇、地久、納曾利、昆崙八仙、散手、貴德鯉口、採桑老の八種、そのうち新鳥蘇は四面、納曾利は二面あり、また次の六面には裏面に銘文がある。
  • 地久面、墨書銘「元曆二年乙巳ニ月日」
    新鳥蘇面、墨書銘「元曆二年乙巳二月日佛師印勝」他の一面朱漆銘「佛師印勝興福寺新鳥蘇元曆二年乙巳二月日」
    貴德鯉口面、刻銘「興福寺天文六丁酉四月十九日」
    散手面、刻銘「以元興寺本模之佛師定慶壽永三年二月日」
    採桑老面、烙印「三上越前」
  • 右の銘文によつて鎌倉以前の舊樣式鎌倉の新樣式、江戶期の樣式等それそれ時代の特色が窺はれるのが面白い。
  • 尙十二面のうち二面は奈良帝室博物館へ出陳。
  • 轟太鼓[國寶]一對 緣、木製透彫著色、左方は緣高十二尺九寸五分、黑漆金箔押双龍、鼓面金箔押三巴、緣の頂上に金箔押日象を挿んで居る。右方は緣高十三尺一寸、黑漆金箔押鳳凰、鼓面銀二ツ巴、緣の頂上に銀箔押月象を挿み、共に朱漆勾欄付黑漆受臺を檜製の飾臺に載せて居る。社傳に天平年間の製作と稱して居る。
  • 樂所補任[國寶]二卷 紙本墨書、前卷に嘉禎二年正月日書寫の奧書がある。
  • 樂書[國寶]紙本墨書 五卷
  • 以下奈良帝室博物館へ出陳
  • 赤絲威大鎧[國寶]一領
  • 兜、大袖付、傳源義經寄附
  • 黑韋威矢筈札胴丸[國寶]一領
  • 兜、大袖付、菊金具、楠正成寄進、南北朝時代
  • 黑革威胴丸[國寶]一領
  • 兜、大袖付、菊金具、楠正成寄進、南北朝時代
  • 樺糸威鎧[國寶]兜付 一領
  • 籠手[國寶]傳源義經所用 一雙
  • 赤銅造太刀[國寶]友成作 一ロ
  • 耳木菟短刀[國寶]一ロ
  • 菊造短刀[國寶]一ロ
  • 太刀[國寶]一口
  • 銘備州長船住家助、永享八年二月日近衞忠熙忠房寄進狀一通附屬

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