般若寺

般若寺
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

[真言律宗] 駅から東北方向に約3km、東大寺転害門の北1kmのところにあります。バスでのアクセスが可能です。

当寺は、飛鳥時代の白雉5年(654年)に孝徳天皇の病気平癒を祈願するため、蘇我日向臣によって創建されました。その後、奈良時代の聖武天皇の時代に官寺となりました。一時衰退しましたが、平安時代の延喜年間(901-923年)に醍醐寺の聖宝・観賢らによって再興されました。しかし、治承4年(1180年)に平重衡によって焼かれてしまいます。その後、鎌倉時代に西大寺の叡尊・忍性によって再び再興され、文殊像を安置して律宗となりました。室町時代の延徳年間(1489-1492年)の火災と永禄年間(1558-1570年)の兵火により被害を受け、現在は本堂、十三重塔婆、楼門を残すのみとなっています。

楼門[国宝] 一間一戸の入母屋造で、本瓦葺きの楼門です。木組みが繊細で大変軽快な建築で、鎌倉時代の永仁年間(1293-1299年)の建築です。

十三重石塔婆[国宝] 本堂の前の高い土壇の上に高くそびえています。最初は聖武天皇の時代に勅願の大般若経を地中に納め、その上に十三重の石塔婆を建立されたと伝わりますが、現存するものは鎌倉時代に再建されたものです。山城宇治浮島の石塔婆に次ぐ大きな石塔婆です。形は非常に軽やかで、頂上には銅製の九輪を戴き、最下部の方形の石には四面に仏体が線彫りで表現されています。

笠塔婆二基[国宝] もと寺の南方にあったものをここに移設したもので、現在は十三重石塔婆の前面左右両側に並んで建っています。高さは各4.8m、石柱の頂に笠があります。各柱の正面には梵字、側面には四句の偈を刻み、その下部には宋人伊行吉が鎌倉時代の弘長元年(1261年)7月11日に父伊行末の一周忌にその冥福を祈り、併せて存命中の母のために建立したことが明記されています。

  • 宝物
  • 寺門扁額[国宝] 木造 伝嵯峨天皇宸筆 1面
  • 薬師如来立像[国宝] 銅造 1軀
  • 舎利塔[国宝] 木造 1基 以上奈良帝室博物館出展
  • 叡尊願文[国宝] 紙本墨書 文永6年(1269年)3月25日 1巻 東京帝室博物館出展
※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
般若寺
かな
はんにゃじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
奈良県奈良市般若寺町221
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

[眞言律宗] 驛の東北方約三粁、東大寺轉害門の北一粁にあり、自動車の便がある。

當寺は白雉五年孝德天皇の御病平癒祈願のため、蘇我日向臣によつて創建され、後聖武天皇の時官寺となつた。その後寺運衰頽せしが、延喜年間醍醐寺の聖寶觀賢等によつて再興されたが、治承四年平重衡のために燒かれた。その後また西大寺の叡尊忍性によつて再興され文殊像を安置し、改めて律宗となした。延德年中の火災と永祿の兵火とにかゝり、今は僅に本堂、十三重塔婆及樓門を存するのみである。

樓門[國寶] 一間一戶、屋根入母屋造、本瓦葺の樓門である。木割纎細、頗る輕快な建築で、鎌倉時代永仁年間の建築である。

十三重石塔婆[國寶] 本堂の前の高い土壇の上に高く聳えて居る。はじめ聖武天皇の時勅書の大般若經を土中に納め、その上に十三重の石塔婆を建て給ひしと云ふも、現存のものは、鎌倉時代に再建されたものである。山城宇治浮島の石塔婆に次いでの大石塔婆である。形態頗る輕妙にして頂上には銅製の九輪を冠し、最下部の方石には四面に佛體が線彫で現はされて居る。

笠塔婆二基[國寶] もと寺の南方にあつたのをこゝに移したもので、今十三重石塔婆の前面左右兩側に並び立つて居る。高さ各十六尺、石柱の頂に笠がある。各柱の正面には梵字、側面には四句の偈を刻し、その下部には宋人伊行吉が弘長元年七月十一日に父伊行末の一週忌にその冥福を祈り、兼て現在慈母のために造立したことが明記されて居る。

  • 寶物
  • 寺門扁額[國寶]木造 傳嵯峨天皇宸筆 一面
  • 藥師如來立像[國寶]銅造 一軀
  • 舎利塔[國寶]木造 一基 以上奈良帝室博物館出陳
  • 叡尊願文[國寶]紙本墨書 文永六年三月廿五日 一卷 東京帝室博物館出陳

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