下田

下田
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

沼津の南82km、修善寺の南56km、沼津および駿豆鉄道修善寺駅から自動車の便があります。伊豆南岸の良港で、江戸時代には上方江戸間の海路の要衝として栄えたところで、明治以降大型汽船の時代に入りやや衰えましたが、今なお伊豆南部第一の都市です。港湾は景勝の地を占め、古の鵜島城の跡は公園となり、その海岸に遊覧道路が造られ、海水浴は東部の武ヶ浜と西部の大浦とで行われます。東京からは定期汽船が熱海、伊東など東伊豆の諸港を経て通っていて、また西には西海岸の松崎、土肥を経て、沼津または清水へ通う汽船もあります。この地は嘉永、安政年間には欧米諸国に対する外交折衝の地となり、日本外交史上に特筆される歴史を遺しました。その史蹟には、日米条約(下田条約)議定の際に使用された了仙寺や日露条約締結の地として知られている長楽寺があります。また郊外柿崎には米国最初の領事館の跡があります。旅館は平野屋。

  • 下田節 伊豆の下田に長居はおよし縞の財布が空になる
  • (囃)ヤレ、下田の沖に瀬が四つ、思ひ切る瀬に、切らぬ瀬に、取る瀬に遣る瀬がないわいなアエ。
  • 伊豆の下田を朝山まけば、晩にや志州の鳥羽の浦へ
  • (囃)ヤレ、伝馬を漕いで八帆まいて、帆足そろへて行くときは、下田恋しと思ひ出して泣きやがれ泣きやがれ、
  • 相模や東北風で石廊崎や西風よ、間の下田がだしの風
  • (囃)ヤレ、千日千夜さ逢はずとも、先さへ心がかはらなきや、なんで私がかはらうぞ、日々に思ひが増すわいなアエ。
  • 下田出るときや涙で出たが間の山をば唄で越す
  • (囃)ヤレ、山中通れば鶯が、梅の小枝に昼寝して、花の散るのを夢に見て、花さけ吹けと啼くわいなアエ。
  • 行かうか柿崎戻ろうか下田、こゝが思案の間戸ケ浜
  • (囃)ヤレ、お前をすてゝ仇枕、交はす心はなけれども、勤めの身ならば是非もない、少しや察して、お奥んなんしようエ。
※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行
下田港

令和に見に行くなら

名称
下田
かな
しもだ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
静岡県下田市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

沼津の南八二粁、修善寺の南五六粁、沼津及駿豆鐵道修善寺驛から自動車の便がある。伊豆南岸の良港で、江戶時代には上方江戶閒の海路の要衝として殷盛たりし處で、明治以降大型汽船の時代に入りやゝ衰へたが、今尙伊豆南部第一の都市である。港灣は景勝の地を占め、古の鵜島城の址は公園となり、その海岸に遊覽道路が開鑿せられ、海水浴は東部の武ケ濱と西部の大浦とに行はれる。東京よりは定期汽船が熱海、伊東など東伊豆の諸港を經て通ひ、また西方には西海岸の松崎、土肥を經て、沼津または淸水へ通ふ汽船もある。この地は嘉永、安政年閒には歐米諸國に對する外交折衝の地となり、我が外交史上に特筆すべき歷史を遺した。その史蹟には、日米條約(下田條約)議定の時に使用された了仙寺及日露條約締結の地として知られて居る長樂寺がある。また郊外柿崎には米國最初の領事館の址がある。旅館 平野屋。

  • 下田節 伊豆の下田に長居はおよし縞の財布が空になる
  • (囃)ヤレ、下田の沖に瀨が四つ、思ひ切る瀨に、切らぬ瀨に、取る瀨に遣る瀨がないわいなアエ。
  • 伊豆の下田を朝山まけば、晚にや志州の鳥羽の浦へ
  • (囃)ヤレ、傳馬を漕いで八帆まいて、帆足そろへて行くときは、下田戀しと思ひ出して泣きやがれ泣きやがれ、
  • 相模や東北風で石廊崎や西風よ、閒の下田がだしの風
  • (囃)ヤレ、千日千夜さ逢はずとも、先さへ心がかはらなきや、なんで私がかはらうぞ、日々に思ひが增すわいなアエ。
  • 下田出るときや淚で出たが閒の山をば唄で越す
  • (囃)ヤレ、山中通れば鶯が、梅の小枝に晝寢して、花の散るのを夢に見て、花さけ吹けと啼くわいなアエ。
  • 行かうか柿崎戾ろうか下田、こゝが思案の閒戶ケ濱
  • (囃)ヤレ、お前をすてゝ仇枕、交はす心はなけれども、勤めの身ならば是非もない、少しや察して、お奧んなんしようエ。

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