見高段間遺跡

見高石器時代住居址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

下田町の東北約12km、下河津村見高小学校構内にあり、自動車の便があります。住居跡は学校の運動場内3か所に散在し、東北にあるのは、発掘の当時不用意に大部分を動かし、後に記憶をたどってもとの位置に復元したものといいます。縦横各1.65m内に11個の平石を置き、中央の炉と思われるところに2個の石があり、東北に5個の飛石があります。東南にある住居跡は原状のままで、南北2m東西1.65mの地域内に平石を中央を凹ませて敷き、平石の隙間は丸石で埋め、中央に石をやや高く置いた炉を設けています。最初発見された時この炉の上に完全な甕が置かれていたといいます。この住居跡の付近に無頭の石棒をたててその上を凹んだ石で覆い、周囲に種々の石を置いた場所も発見されています。さらにその付近に炉および石敷の半分を遺した住居跡があります。これらの住居跡からは多くの石器や土器の破片などが発見され、その大部分は見高小学校内に保管されています。石器は石鏃が非常に多く、次いで石棒、石皿、石斧などもいくらか発見されています。土器は破片ばかりですが多数発掘され、いずれもアイヌ式土器です。この住居跡は相模灘に突出した台地で、東南に小港を控え、展望は広く景勝の地を占め、石器時代にアイヌ民族が拠点とした城塞と考えられています。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
見高段間遺跡
かな
みたかだんまいせき
種別
見所・観光
状態
現存するが非公開
備考
河津町立河津東小学校内にあります。現在公開を中止しています。

日本案内記原文

下田町の東北約一二粁、下河津村見高小學校構內にあり、自動車の便がある。住居址は學校運動場內三ケ所に散在し、東北に存するは、發掘の當時不用意に大部分を動かし、後記憶をたどつてもとの位置に復したものと云ふ。縱橫各一米六五內に十一個の平石を置き、中央の爐と見るべき處に二個の石があり、東北に五個の飛石がある。東南に存する住居址は原狀のまゝで、南北二米東西一米六五の地域內に平石を中凹に敷き、平石の閒隙は丸石を以て填充し、中央に石をやゝ高く置いた爐を設けて居る。最初發見された時この爐の上に完全なる甕が置かれて居たと云ふ。この住居址の附近に無頭の石棒をたててその上に凹石を覆い、周圍に種々の石を置いた場所も發見されて居る。更にその附近に爐及石敷の半分を遺した住居址がある。これらの住居址からは多くの石器及土器の破片などが發見され、その大部分は見高小學校內に保管されて居る。石器は石鏃が非常に多く、次いで石棒、石皿、石斧なども少からず發見されて居る。土器は破片ばかりであるが多數發掘され、何れもアイヌ式土器である。この住居址は相模灘に突出せる臺地で、東南に小港を控へ、展望廣く景勝の地を占め、石器時代にアイヌ民族の據つた城塞と察せられる。

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