原城跡

原城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

口之津鉄道南有馬駅の東0.5km、南高来郡南有馬町大江の海岸に臨んだ丘陵一帯で、丘上耕地の間に土塁、濠跡等が遺存します。城は東は海水満潮ごとに自然の濠をなし、西は泥田で自ら要害をなし、本丸、二の丸、三の丸、天草丸の四区に分かれます。室町時代の明応9年(1500年)の築造で原之城と呼ばれ、はじめ有馬氏の居城でしたが、江戸時代前期の慶長19年(1614年)有馬氏が日向に転封されたので、元和年間(1615~1624年)松倉豊後守重政の居城となりましたが、同9年(1623年)軍政が島原城に移ってから廃城となりました。しかし寛永14年(1637年)10月島原、天草の乱が起こり、同年12月天草四郎時貞が3万7,000人の民衆を率いて廃城に入り、塁柵を修築して立てこもりました。幕府は板倉重昌を将として征伐の軍を発しましたが、叛徒は死守して幕軍方に死傷者が多く、翌15年(1638年)1月1日、重昌も陣頭で討ち死にしました。幕府はついに13万に近い大軍を動かしてこれを包囲し、3か月を費やして同年2月28日に陥落しました。

城址の南端は天草丸跡で、その東北の本丸跡は縦約145m、横約254mで、海抜約33mあり、一隅に佐分利九之丞の墓があり、崖下の海岸に近く窪地となっている蓮池に続いて空濠があり、天草丸跡から本丸跡に至る道の左側内馬場の石塁は残存する唯一の石塁です。空濠を隔てて二の丸および三の丸跡、大手門跡等があり、三の丸跡には出丸の角に板倉重昌戦死の記念碑があります。また城址の西方鉄道線路の西側に鏡懸松、和蘭石火矢台跡等があります。駅の南0.5kmの海岸にある八幡宮境内には、慶安元年(1648年)代官鈴木重成が建てた供養碑があり、また南有馬小学校には城址から発見された鉄製砲弾、刀、土器皿、瓦片等が保存されています。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
原城跡
かな
はらじょうあと
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
長崎県南島原市南有馬町
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

口之津鐵道南有馬驛の東半粁、南高來郡南有馬町大江の海岸に臨んだ丘陵一帶で、丘上耕地の閒に土壘、濠址等が遺存する。城は東は海水滿潮每に自然の濠をなし、西は泥田で自ら要害をなし、本丸、二の丸、三の丸、天草丸の四區に別たれる。明應九年の築造で原之城と呼ばれ、始め有馬氏の居城であつたが、慶長十九年有馬氏日向に轉封せられたので、元和年閒松倉豐後守重政の居城となつたが、同九年軍政島原城に移つてから廢城となつた。然るに寬永十四年十月島原、天草の亂起り、同年十二月天草四郞時貞三萬七千の衆を率ゐて廢城に入り、壘柵を修築して立籠つた。幕府板倉重昌を將として征伐の軍を發したが、叛徒死守して幕軍卻つて死傷多く、翌十五年一月一日、重昌陣頭に討死した。幕府は遂に十三萬に近き大軍を動かしてこれを包圍し、三箇月を閱して同年二月二十八日陷落した。

城址の南端は天草丸址で、その東北の本丸址は縱約一四五米、橫約二五四米で、海拔約三三米あり、一隅に佐分利九之丞墓あり、崖下の海岸に近く窪地をなして居る蓮池に續きて空濠あり、天草丸址から本丸址に至る道の左側內馬場の石壘は殘存せる唯一の石壘である。空濠を隔てゝ二の丸及三の丸址、大手門址等があり、三の丸址には出丸の角に板倉重昌戰死の記念碑がある。また城址の西方鐵道線路の西側に鏡懸松、和蘭石火矢臺址等がある。驛の南半粁の海岸にある八幡宮境內には、慶安元年代官鈴木重成建つる所の供養碑あり、また南有馬小學校には城址から發見された鐵製砲彈、刀、土器皿、瓦片等が保存せられて居る。

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