浅草寺

淺草寺[天臺宗]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

浅草公園にあり、市内の最も繁華な遊興地にかこまれ、参詣人でいつも賑わっています。金竜山浅草寺と称し、その創建年代は相当古い昔のことです。鎌倉時代にはすでに大寺であって、吾妻鏡の鎌倉時代の建長3年(1251年)3月6日の項にも当寺において恠異のあったことを載せ、室町時代の紀行廻国雑記にもたびたびその名が見え、室町時代の天文4年(1535年)には小田原の北条氏綱が大伽藍を再興しました。しかし観音堂の信仰が流行して参詣者が群れなす盛況となったのは江戸時代に入って元和、寛永以来のことです。現在主要建築物は本堂、五重塔、経蔵、仁王門および伝法院でいずれも江戸時代の建築です。

  • 宝物
  • 銅鐘 1口 伝法院の庭にあり、高さ約1m、室町時代の至徳4年(1387年)の銘文があります。
  • 法華経(開結共)[国宝] 10巻 紙本墨書
  • 大蔵経(元版)[国宝] 5,428巻 鎌倉鶴ヶ岡八幡宮旧蔵、ところどころに鶴岡八幡宮の印があります。
  • 種子曼荼羅(金胎) 2幅

仁王門 観音堂の正面にあり、五間三戸朱塗の楼門で東京市内では芝増上寺の三門に次ぐ雄大な楼門で、江戸時代中期の建築です。

迷子知らせ石標 仁王門前、向かって右にあり、「南無大慈悲観世音菩薩まよひこのしるべ」と題し両側面に「たづぬる方」および「しらする方」と刻しその上に張紙を出すのに使えるように長方形の窪みが設けられています。江戸時代末期の安政7年(1861年)の建設となります。

五重塔[国宝] 仁王門を入って右手にあります。本堂とともに徳川三代将軍家光の再建、江戸時代前期の慶安2年(1649年)にできた方三間朱塗の五層塔婆です。各層屋根銅板葺、本塔婆は江戸初期における雄麗な建築です。

本堂(観音堂)[国宝] 慶安2年(1649年)三代将軍徳川家光が造営したもので、江戸時代中期の元禄5年(1692年)五代将軍綱吉の時さらに修理が加えられました。七間七面単層入母屋造、本瓦葺、正面に三間の向拝をもつ朱塗の大殿堂です。内部は内外両陣に区分けされ、前面三間通を外陣とし、後方三間三面を内陣としています。内陣は漆箔の丸柱を建て、中央の須弥壇上に宮殿を設け、5cmあまりの金像と伝称する秘仏観音菩薩を安置しています。本堂は規模の雄大なことと装飾の華麗な点で、東京市内に現存する仏殿中で最も傑出したものです。

西仏板碑 本堂の西淡島堂の前の池畔にあります。上部欠失、残存部は二断されています。長さ約2m上部に種子、その下に釈迦の像を刻み、像の左右に「右志者四殊由三昧沙弥西仏先妻女並男女二子為一殊四弥西仏現当二世諸願円満西仏敬白」の銘文があります。西仏は吾妻鏡にて鎌倉時代の建長5年(1253年)8月の項に出ている鎌田三郎入道西仏であるという説があります。

六地蔵石灯籠 西仏板碑のそばにあります。高さ約1.8m、火袋に六地蔵の彫刻があり、平安時代の久安2年(1146年)源義朝が諸堂を造営した時に鎌田兵衛政清が奉納したものと伝わります。竿石に「十月二十二日」「兵衛」の文字がかすかに読みとれます。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
浅草寺
かな
せんそうじ
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
昭和20年(1945年)の東京大空襲で本堂(観音堂)や五重塔などを焼失しました。戦後に再建されていますが、五重塔などは位置も変わっています。
住所
東京都台東区浅草2-3-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

淺草公園にあり、市內の最も繁華な遊興地にかこまれ、參詣人が常に雜沓して居る。金龍山淺草寺と稱し、その創建年代は相當古い昔のことであらう。鐮倉時代既に大寺であつて吾妻鏡建長三年三月六日の條にも當寺に於て恠異のあつたことを載せ、室町時代の紀行廻國雜記にも度々その名が見え、天文四年には小田原の北條氏綱が大伽藍を再興した。然し觀音堂の信仰が流行して參詣者群れなすの盛況は江戶時代に入り元和、寬永以來のことである。現在主要建築物は本堂、五重塔婆、經藏、仁王門及傳法院で何れも江戶時代の建築である。

  • 寶物
  • 一 銅鐘 一口 傳法院の庭にあり、高約一米(三尺二寸)、至德四年の銘文がある。
  • 一 法華經(開結共)[國寶] 十卷 紙本墨書
  • 一 大藏經(元版)[國寶] 五千四百二十八卷 鐮倉鶴ケ岡八幡宮舊藏、所々に鶴岡八幡宮の印がある。
  • 一 種子曼荼羅(金胎) 二幅

仁王門 觀音堂の正面にあり、五閒三戶朱塗の樓門で東京市內に於ては芝增上寺の三門に次ぐ雄大なる樓門で、江戶時代中期の建築である。

迷子知らせ石標 仁王門前、向つて右方にあり、「南無大慈悲觀世音菩薩まよひこのしるべ」と題し兩側面に「たづぬる方」及「しらする方」と刻しその上に張紙をなすに便なる樣に長方形の窪みが設けられて居る。安政七年の建設にかゝる。

五重塔婆[國寶] 仁王門を入りて右手にある。本堂と共に德川三代將軍家光の再建、慶安二年に出來た方三閒朱塗の五層塔婆である。各層屋根銅板葺、本塔婆は江戶初期に於ける雄麗なる建築である。

本堂(觀音堂)[國寶] 慶安二年三代將軍德川家光の造營したるもので、元祿五年五代將軍綱吉の時更に修理が加へられた。七閒七面單層入母屋造、本瓦葺、正面に三閒の向拜を有する朱塗の大殿堂である。內部は內外兩陣に區劃され、前面三閒通を外陣とし、後方三閒三面を內陣として居る。內陣は漆箔の丸柱を建て、中央の須彌壇上に宮殿を設け、五糎餘(一寸八分)の金像と傳稱する祕佛觀音菩薩を安置して居る。本堂は規模の雄大なると裝飾の華麗なる點に於て、東京市內に現存する佛殿中最も傑出したるものである。

西佛板碑 本堂の西淡島堂の前の池畔にある。上部缺失、殘存部二斷さる。長さ約二米上部に種子、その下に釋迦の像を刻し、像の左右に「右志者四殊由三昧沙彌西佛先妻女竝男女二子爲一殊四彌西佛現當二世諸願圓滿西佛敬白」の銘文がある。西佛は吾妻鏡建長五年八月の條に出て居る鐮田三郞入道西佛であらうと云ふ說がある。

六地藏石燈籠 西佛板碑の傍にある。高さ約一米八(六尺)、火袋に六地藏の彫刻あり、久安二年源義朝諸堂造營の時鐮田兵衞政淸の奉納せしものと傳ふ。竿石に「十月二十二日」「兵衞」の文字がかすかに讀まれる。

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