施無畏寺

施無畏寺[眞言宗御室派]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

紀伊湯浅駅の西北約3km、有田郡田栖川村栖原にあります。森九郎景基がこの地に一寺を建立し山城栂尾高山寺の明恵上人高弁を屈請して、鎌倉時代の寛喜3年(1231年)供養の席をもち、命じて漁猟殺生の業を境内で行うことを禁じ、よって施無畏寺と号したといいます。上人没後に弟子の高信が自ら師の影像を造り、遺品数種とともに寺に施入しました。寺宝に次の施入状があり、紙本墨書で末尾に天福元年癸巳九月八日沙門高信の奥書があり、同じく寺宝の寛喜3年4月17日高弁および湯浅一党の証明のある置文1巻とともに国宝に指定され、ともに奈良帝室博物館に出陳中です。この他藤原景基寄進状、明恵上人所持の宝剣、五鈷等の什器があり、また喜海の筆による木製率都婆建立の際の銘文草稿の巻物1巻があります。境内に幹囲約3.8mの大竹柏があり、背後の白上山は松杉、桜等の樹木が蒼翠として茂り、中腹を拓いて公園としていますが、遠く四国の島影を眺められ風光がよいところです。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
施無畏寺
かな
せむいじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
和歌山県有田郡湯浅町栖原1465
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の西北約三粁、有田郡田栖川村栖原にある。森九郞景基この地に一寺を建立し山城栂尾高山寺の明惠上人高辨を屈請して、寬喜三年供養の法莚を展し、令して漁獵殺生の業を境內に行ふを禁じ、仍て施無畏寺と號したと云ふ。上人寂後弟子高信自ら師の影像を造り、遺品數種と共に寺に施入した。寺寶に右の施入狀あり、紙本墨書で末尾に天福元年癸巳九月八日沙門高信の奧書を存し、同じく寺寶の寬喜三年四月十七日高辨及湯淺一黨の證明ある置文一卷と共に國寶に指定され、共に奈良帝室博物館に出陳中である。この他藤原景基寄進狀、明惠上人所持の寶劍、五鈷等の什器を存し、また喜海の筆にかゝる木製率都婆建立の際の銘文草稿の卷物一卷がある。境內に幹圍約三米八の大竹柏があり、背後の白上山は松杉、櫻等の樹木蒼翠として茂り、中腹を拓いて公園となして居るが、遠く四國の島影を眺め風光が宜い。

有田・湯浅のみどころ