広島市

廣島市
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

広島駅、横川駅、己斐駅所在地。太田川の下流に位置し、同河の三角州が要部となり、東北西の3面に高地があります。昭和4年(1929年)4月隣接7町村すなわち已斐町、古田村、草津町、三篠町、牛田村、矢賀村、仁保村を編入したので、市の面積は約70km²となり、東西約12km、南北およそ9kmです。

この地はもと五箇庄と呼ばれ、海浜の葭原でしたが、安土桃山時代の天正17年(1589年)毛利輝元がここに築城して広島と改称したといいます。ここから士人、商工人の居宅が増加しましたが、慶長5年(1600年)輝元が長門周防に移ると福島正則がその後を襲って城池を修理しました。江戸時代前期の元和5年(1619年)浅野氏が入国してから明治2年(1869年)の版籍奉還まで藩治約二百五十年の城下でした。日清戦争の際明治天皇が陣をこの地に進められ、第五師団司令部内に大本営を置き市内を臨戦地境としました。その後北清事変、日露戦争、第一次世界大戦などの戦役ごとに軍隊出入の要地でした。人口は27万人におよび、中国地方の最大都会で、県治、軍事、教育等の中心です。工産物は人造絹糸、兵器類、缶詰、綿糸、護謨製品等が主なもので、昭和7年(1932年)の産額6,000万円あまりです。市の中央元安橋から東は広島の本通筋といい、商業が盛んです。

※底本:『日本案内記 中国・四国篇(初版)』昭和9年(1934年)発行

令和に見に行くなら

名称
広島市
かな
ひろしまし
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
広島県広島市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

廣島驛、橫川驛、己斐驛所在地。太田川の下流に位し、同河の三角州が要部となり、東北西の三面に高地がある。昭和四年四月鄰接七町村卽ち已斐町、古田村、草津町、三篠町、牛田村、矢賀村、仁保村を編入したので、市の面積は約七〇方粁となり、東西約一二粁、南北凡そ九粁である。

この地はもと五箇庄と呼ばれ、海濱の葭原であつたが、天正十七年毛利輝元こゝに築城して廣島と改稱したと云ふ。これより士人、商工人の居宅增加したが、慶長五年輝元の長門周防に移るや福島正則その後を襲ひて城池を修理した。元和五年淺野氏入國してから明治二年の版籍奉還まで藩治約二百五十年の城下であつた。明治二十七、八年戰役の際明治天皇大纛をこの地に進め給ひ、第五師團司令部內に大本營を置き市內を臨戰地境とした。その後明治三十三年同三十七八年、大正三年乃至九年等の諸戰役每に軍隊出入の要地であつた。人口は二十七萬に及び、中國地方の最大都會で、縣治、軍事、敎育等の中心である。工產物は人造絹絲、兵器類、罐詰、綿絲、護謨製品等が主なもので、昭和七年の產額六千萬圓餘である。市の中央元安橋より東は廣島の本通筋と云ひ、商業が殷盛である。

広島のみどころ