平等院

平等院鳳凰堂[國寶]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

奈良線宇治駅の東約1km、京阪電車宇治の東南約0.5km、宇治川左岸の山水明媚の地にあります。

この地はもと清和、陽成天皇の御世左大臣源融がその風水を愛し、別荘を建ててしばしば清遊を試みたところです。その後関白藤原道長の所有となり、道長もまた非常にこの地を愛し、常に往来したと伝えられています。道長の子頼通はこれを父から受け、後に平安時代の永承7年(1052年)3月改めて寺とし、平等院と称しました。その当時建築された平等院の堂宇は鳳凰堂のほかに三重塔、五大堂、金堂、講堂、経蔵、東西法華堂、大門などすべて備えていたと伝えられていますが、鳳凰堂以外の諸堂は現在その遣跡も残っていません。しかし鳳凰堂は諸堂のなかで最も大切なもので、藤原時代の善美な建築、絵画、彫刻、工芸など各種芸術の粋を集めて当時の浄土思想を現す大切な遺構で、当時の美術を探り、藤原氏栄華のあとを偲ぼうとする人は、必ずまずこの鳳凰堂を訪れるべきものです。

鳳凰堂を訪ねる人はその周囲の風光を賞するとともに、必ずその建築、堂内の仏像、壁および扉に描かれた仏画を注意して見なければなりません。

鳳凰堂は天喜6年(1058年)に建てられ、藤原時代に流行した阿弥陀堂建築の一例で、その平面は寝殿造から来たものと思われます。中堂は三間二面裳階をもち、屋根は入母屋、本瓦葺で正面は蓮池に臨んでいます。その左右に翼廊を伸ばし後方に尾廊を出し、翼廊の折点には宝形造の楼を起して均整をとり、しかも全体としては極めて緩化に富んでいます。軽快な屋根の反り、軒の変化、全く巧妙を極めたものです。棟の両端には青銅製の鳳凰を上げています。この鳳凰はじめは鍍金を施して金色燦然たるものでしたが、今は古色蒼然としています。

中殿の内部は後面裳腰の部分と通じているため、三間三面の方形をなし、床は板張りで中央の一間に須弥壇を設け、その上に本尊阿弥陀如来の坐像を安置しています。須弥壇は平塵と称する金粉を散らした漆塗地の上に螺鈿をもって宝相花文を嵌装し美観を極めたものでしたが、今はすべて剥離して虫喰いのあとのようになっています。

須弥壇上の本尊阿弥陀仏は、当時最も有名であった仏師定朝の作として名高い。寄木造で金箔を施し、近年修理の結果、全面新しく金色に輝いています。高さ3.7mいわゆる丈六結跏趺坐の像です。面貌は豊満で螺髪の刻みも細やかで表面はなだらかになり、衣のひだを現した線も激しい隆起はなく、優婉流麗の曲線を使用して両肩を覆い、胸を開き、膝をめぐり、両手を膝の上に集めて、弥陀の定印を結んでいます。

本尊の光背は二重光で、周囲には精緻な飛天散雲の透彫があります。その散雲は香煙のように渦を巻いて、降るようにも昇るようにも見え、その瑞雲のなか十二の天人が嵌装されていますが、いずれも音楽を奏でています。

本尊の上部には方形の天蓋がかかっています。その天井は本堂の天井と同様折上格天井で、周囲に垂飾をもち、中央に円蓋をつるして本尊の頭上を覆っています。その格天井の格縁には螺鈿を嵌入し、格間にはところどころに円鏡を嵌装し、その精緻な彫刻は木彫、透彫の極致にまで達したものといえるでしょう。

中堂内部の四周、長押上の小壁には、菩薩の群像50体以上が取り付けられています。いずれも雲上にあってあるいは立って舞い、あるいは座って音楽を奏で、中央の阿弥陀如来を供養する様子を現しています。その姿態は自由で変化に富み、極めて絵画的気分に満ち、かつては美しく彩色されたものと見え、金箔および胡粉彩色のあとがところどころに残存しています。

中堂の扉と壁面に描かれた仏画は、仏説観無量寿経に説かれている三類九品の阿弥陀仏来迎図を描写したものです。すなわち正面の扉には上品、向かって右側の扉と壁面には中品、左側の扉と壁面には下品の来迎図を描いています。この画は常時詫磨派の大家詫磨為成の作とされ、構図雄大、筆致優美にして、その色彩およびそれぞれの描線にも日本画の趣致を発揮し、穏やかな山水の景を取り入れ、自然の美を背景として弥陀の来迎が描かれています。当麻曼荼羅の図は中国風を脱していませんが、この図においては藤原式の豊満婉麗な特徴を自由に発揮して、日本化された弥陀の来迎観を遺憾なく表象しています。

鳳凰堂を中心として池で取り巻いた境内は、その築造に今なお当時のおもかげを偲ぶことができ、史蹟、名勝として指定されています。

観音堂(釣殿)[国宝] 境内の北部にあります。七間四面、単層、屋根四注造本瓦葺、鎌倉時代の建築です。国宝に指定された木造の十一面観音立像が安置されています。

銅鐘[国宝] 境内の鐘楼に懸かっています。藤原時代の名鐘で、いくらか朝鮮鐘の形式を加味したやうなところもあります。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行
鳳凰堂 鳳凰堂本尊阿弥陀像

令和に見に行くなら

名称
平等院
かな
びょうどういん
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府宇治市宇治蓮華116
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

奈良線宇治驛の東約一粁、京阪電車宇治の東南約半粁、宇治川左岸の山水明媚の地にある。

この地はもと淸和、陽成天皇の御世左大臣源融がその風水を愛し、別莊を建てゝ屢々淸遊を試みた所である。その後關白藤原道長の有に歸し、道長もまたいたくこの地を愛し、常に往來したと傳へられて居る。道長の子賴通これを父より受け、後永承七年三月改めて寺となし、平等院と稱した。その當時建築された平等院の諸堂は鳳凰堂の外に三重塔、五大堂、金堂、講堂、經藏、東西法華堂、大門等悉く具備して居たと傳へられて居るが、鳳凰堂以外の諸堂は今日その遣址も存して居ない。然し鳳凰堂は諸堂中最も大切なもので、藤原時代の善美な建築、繪畫、彫刻、工藝など各種藝術の粹を集めて當時の淨土思想を表象せる大切な遺構で、當時の美術を探り、藤原氏榮華のあとを偲ばんと欲する程の人は、必ず先づこの鳳凰堂を訪ふべき必要がある。

鳳凰堂を訪ぬる人はその周圍の風光を賞すると共に、必ずその建築、堂內の佛像、壁及扉に描かれた佛畫を注意して見なければならぬ。

鳳凰堂は天喜六年に建てられ、藤原時代に流行した阿彌陀堂建築の一例で、その平面は寢殿造より來たものと思はれる。中堂は三閒二面裳階を有し、屋根は入母屋、本瓦葺で正面は蓮池に臨んで居る。その左右に翼廊をのべ後方に尾廊を出し、翼廊の折點には寶形造の樓を起して均整をとり、しかも全體としては極めて緩化に富んで居る。輕快な屋根の反り、軒の變化、全く巧妙を極めたものである。棟の兩端には靑銅製の鳳凰を上げて居る。この鳳凰はじめは鍍金を施して金色燦然たるものであつたが、今は古色蒼然として居る。

中殿の內部は後面裳腰の部分と通じて居るため、三閒三面の方形をなし、床は板張りで中央の一閒に須彌壇を設け、その上に本尊阿彌陀如來の坐像を安置して居る。須彌壇は平塵と稱する金粉を散らした漆塗地の上に螺鈿を以て寶相花文を嵌裝し美觀を極めたものであつたが、今は悉く剥離して蟲喰ひのあとの如くなつて居る。

須彌壇上の本尊阿彌陀佛は、當時最も有名であつた佛師定朝の作として名高い。寄木造で金箔を施し、近年修理の結果、全面新しく金色に輝いて居る。高さ九尺七寸所謂丈六結跏趺坐の像である。面貌豐滿螺髮の刻みも細やかで表面なだらかになり、衣の襞積を現はした線も甚しく隆起せず、優婉流麗の曲線を使用して兩肩を覆ひ、胸を開き、膝をめぐり、兩手を膝の上に集めて、彌陀の定印を結んで居る。

本尊の光背は二重光にして、周圍には精緻な飛天散雲の透彫がある。その散雲は香煙の如く渦を卷いて、降るが如く昇るが如く見え、その瑞雲中に十二の天人が嵌裝されて居るが、何れも音樂を奏して居る。

本尊の上部には方形の天蓋がかゝつて居る。その天井は本堂の天井と同樣折上格天井で、周圍に垂飾を有し、中央に圓蓋をつるして本尊の頭上を覆うて居る。その格天井の格緣には螺鈿を嵌入し、格閒には所々に圓鏡を嵌裝し、その精緻な彫刻は木彫、透彫の極致にまで達せるものと云ひ得るであらう。

中堂內部の四周、長押上の小壁には、菩薩の群像五十餘軀が取り付けられて居る。何れも雲上にあつて或は立つて舞ひ、或は坐して音樂を奏し、中央の阿彌陀如來を供養せる樣を現はして居る。その姿態の自由にして變化に富み、極めて繪畫的氣分に滿ち、嘗ては美はしく彩色されたものと見え、金箔及胡粉彩色のあとが所々に殘存して居る。

中堂の扉と壁面に描かれた佛畫は、佛說觀無量壽經に說かれて居る三類九品の阿彌陀佛來迎圖を描寫したものである。卽ち正面の扉には上品、向つて右側の扉と壁面には中品、左側の扉と壁面には下品の來迎圖を描いて居る。この畫は常時詫磨派の大家詫磨爲成の作と稱され、構圖雄大、筆致優美にして、その色彩及び一々の描線にも日本畫の趣致を發揮し、穩なる山水の景を取り入れ、自然の美を背景として彌陀の來迎が描かれて居る。當麻曼荼羅の圖は支那風を脫せざるが、この圖に於ては藤原式の豐滿婉麗な特徵を自由に發揮して、日本化された彌陀の來迎觀を遺憾なく表象して居るのである。

鳳凰堂を中心として池を以て取まいた境內は、その築造今尙當時の俤を偲ぶべきものがあり、史蹟、名勝として指定されて居る。

觀音堂(釣殿)[國寶] 境內の北部にある。七閒四面、單層、屋根四注造本瓦葺、鐮倉時代の建築である。國寶に指定された木造の十一面觀音立像が安置されて居る。

銅鐘[國寶] 境內の鐘樓に懸つて居る。藤原時代の名鐘で、幾分朝鮮鐘の形式を加味したやうな所もある。

宇治・京田辺のみどころ