太宰府天満宮

太宰府神社[官幣中社]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

二日市駅の東北約4km、筑紫郡太宰府町にあり、自動車の便があります。

菅原道真が左遷地での住まいである榎社で亡くなると、ひつぎを乗せた車が安楽寺の前で動かなくなり、そこで葬り廟所としたというのが起源です。平安時代の延喜5年(905年)公の随臣味酒安行が神託によってはじめて神殿を建て天満大自在天神と称したと伝わります。以来朝廷および武家の崇敬が厚く、社殿も次第に荘厳さを加え、神領も数国におよんだことがあり、古来文教の神として京都北野神社とともに広く信仰されています。

参道の左右に軒をつらねた売店の間を過ぎ境内に入ると、池上に架かった三橋があり、第二の橋際には国宝になっている小祠志賀社があります。池上を渡り石の鳥居を過ぎると左手に絵馬堂、祓殿、右手に宝物館を見て正面に進むと朱塗檜皮葺の楼門があります。楼門の左右からは同じく朱塗の廻廊を出し、本殿の前庭をかこんでいます。楼門廻廊等は明治年間の建築ですが、本殿は小早川隆景が安土桃山時代の天正年間(1573~1592年)この国の主となるにおよんで再建したものです。境内は広く池辺をはじめところどころにクスノキの巨樹があり風致を添えています。

例祭は8月25日。1月7日の夜に行われる追灘祭は、俗に「鬼すべ」と呼ばれ、境内の祓殿で行われます。殿の背後に松葉、藁をたくさん積み上げ、これに点火し、猛煙に包まれたなかを鬼方はみな棍棒をもって社殿の側面を破り、鬼を殿内に迎え入れます。その行事は夜半におよび壮烈を極めます。また当日午後6時から鷽替の行事があります。

本殿[国宝] 五間社流造、屋根は檜皮葺で、正面には中央に大唐破風の向拝、左右に車寄が付いています。内部は床黒塗にして金箔押の円柱を建て、奥に黒塗の壇を作り、壇上に黒塗の板唐戸を立て神座が設けられ、内々陣には菅公の遺骸を納めてあります。建築は手法雄大、装飾非常に華麗豪放、桃山時代の特徴を発揮しています。

末社志賀社[国宝] 境内反橋際にあり、室町時代の長禄2年(1458年)に再建された方一間、単層、屋根入母屋造杮葺の小社殿です。本殿はこのように極めて小規模な建築ながら、その構造手法は複雑珍奇で稀に見るところです。屋根は入母屋造ですが、正面に千鳥破風とその前に唐破風とがあり、枡組も四手先詰組を用い、尾棰を加え、支輪および軒天井をもち、さらに各面中央に一個の蟇股を配し、腰四方に廻椽を繞らし高欄を附け、その下の腰組には四手先挿肘木を用いて椽を支えています。構造はこのように複雑な上に、その手法においても和様唐様および天竺様を併用しているなど、室町末期における粋をあつめた建築雛形のような観を呈しています。

宝物殿 鉄筋コンクリート朱塗、七間三面、単層入母屋造の建築で、多数の宝物が陳列されていますが、次にその重要なものを挙げます。

  • 毛抜形太刀[国宝] 一口 無銘、菅公佩刀と伝えています。
  • 太刀[国宝] 銘俊次 一口
  • 鰐口 銅製、径60cm、安土桃山時代の慶長5年(1600年)豊臣朝臣広門が安楽寺天満宮に奉納したものです。
  • 神鏡 二面 文禄2年(1593年)大谷刑部小輔吉橋が奉納したもの。
  • 除香帖 八冊 明治35年(1902年)一千年祭記念のため作られた書画帖で、当時の著名な画家人物の筆蹟がうかがわれます。

徴古館 本殿の後方にあり、その玄関は維新の際ここに滞留した五卿の一人であった三条卿居館の玄関です。館内には日本の石器時代、古墳時代の遺物その他考古の資料となるべきものが多数陳列されています。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行
太宰府天満宮 太宰府天満宮境内図

令和に見に行くなら

名称
太宰府天満宮
かな
だざいふてんまんぐう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
福岡県太宰府市宰府4-7-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の東北約四粁、筑紫郡太宰府町にあり、自動車の便がある。

當社の起原は菅原道眞謫居の地榎木寺に薨ずるや、柩車安樂寺の地に至りて動かず、卽ちその所に葬り以て廟所とした。延喜五年公の隨臣味酒安行が神託に依りて始めて神殿を建て天滿大自在天神と稱したと傳ふ。爾來朝廷及武家の崇敬厚く、社殿も漸次莊嚴を加へ、神領も數國に及んだことがあり、古來文敎の神として京都北野神社と共に廣く信仰されて居る。

參道の左右に軒をつらねた賣店の閒を過ぎ境內に入ると、池上に架せられた三橋があり、第二の橋際には國寶になつて居る小祠志賀社がある。かくて池上を渡り石の鳥居を過ぎると左手に繪馬堂、祓殿、右手に寶物館を見て正面に進むと朱塗檜皮葺の樓門がある。樓門の左右よりは同じく朱塗の廻廊を出し、本殿の前庭をかこんで居る。樓門廻廊等は明治年閒の建築であるが。本殿は小早川隆景が天正年閒當國の主となるに及んで再建したものである。境內廣く池邊をはじめ所々に樟の巨樹があり風致を添へて居る。

例祭八月二十五日。一月七日の夜に行はれる追灘祭は、俗に「鬼すべ」と稱し、境內の祓殿に於て行はれる。殿の背後に松葉、藁を夥しく積み上げ、これに點火し、猛煙に包まれた中を鬼方各棍棒を揮つて社殿の側面を破り、鬼を殿內に迎へ入れる。その行事夜半に及び壯烈を極める。また當日午後六時から鷽替の行事がある。

本殿[國寶] 五閒社流造、屋根は檜皮葺で、正面には中央に大唐破風の向拜、左右に車寄が附て居る。內部は床黑塗にして金箔押の圓柱を建て、奧に黑塗の壇を作り、壇上に黑塗の板唐戶を立て神座が設けられ、內々陣には菅公の遺骸を納められてある。建築は手法雄大、裝飾頗る華麗豪放、桃山時代の特徵を發揮して居る。

末社志賀社[國寶] 境內反橋際にあり、長祿二年に再建された方一閒、單層、屋根入母屋造杮葺の小社殿である。本殿はかくの如く極めて小規模な建築であるのに、その構造手法の複雜珍奇なるは稀に見る所である。屋根は入母屋造であるが、正面に千鳥破風とその前に唐破風とがあり、枡組も四手先詰組を用ゐ、尾棰を加へ、支輪及軒天井を有し、更に各面中央に一個の蟇股を配し、腰四方に廻椽を繞らし高欄を附け、その下の腰組には四手先插肘木を用ゐて椽を支へて居る。構造かくの如く複雜なる上に、その手法に於ても和樣唐樣及天竺樣を倂用せる等、室町末期に於ける粹をあつめた建築雛形の如き觀を呈して居る。

寶物殿 鐵筋コンクリート朱塗、七閒三面、單層入母屋造の建築で、多數の寶物が陳列されて居るが、左にその重要なものを挙げる。

  • 毛拔形太刀[國寶] 一口 無銘、菅公佩刀と傳へて居る。
  • 太刀[國寶] 銘俊次 一口
  • 鰐口 銅製、徑二尺、慶長五年豐臣朝臣廣門の安樂寺天滿宮に奉納せしものである。
  • 神鏡 二面 文祿二年大谷刑部小輔吉橋の奉納せしもの。
  • 除香帖 八册 明治三十五年一千年祭記念のため作られた書畫帖で、當時の著名な畫家人物の筆蹟が伺はれる。

徵古館 本殿の後方にあり、その玄關は維新の際こゝに滯留した五卿の一人であつた三條卿居館の玄關である。館內には我が國石器時代、古墳時代の遺物その他考古の資料となるべきものが多數陳列されて居る。

二日市・太宰府のみどころ