水城跡

水城址[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

水城駅下車、二日市駅からは西北4km、自動車の便があります。西端は筑紫郡水城村吉松の水城駅付近から、東端は同村上水城に至る平野を横断して、東西両丘陵を連ねた土築堤で、中央に御笠川が貫流して東西二堤に分かたれています。東堤約320m、西堤約700mあり、幅基底部37m、頂部4m、高さ約14m、外側は傾斜が急で、内側は緩やかで二段となっています。東堤は国道により、西堤は鉄道線路によっていずれも裁断され、その工事の折に各種の遺物ならびに築造当時の施設物が出土しました。水城は天智天皇3年(664年)の工築で、堤の内部に水を溜め外敵防備にあてたもので、もっぱらその来襲に備え、太宰府の防御としたものです。奈良時代には天平神護元年(765年)3月太宰少弐采女朝臣浄庭を修理水城専知官としたことがあるが、藤原末期にはすでに廃止されたようです。鎌倉時代に文永11年10月蒙古襲来の際には、日本軍が博多からここに引上げて拠点としたことがあります。東堤の現在国道が通っているところには水城関と呼ばれた関門の礎石が残り、昭和6年(1931年)この付近から貯水の調節をはかるため敷設された水門の木樋の遺構が発見され、遺材の2~3は付近の人家および水城小学校等に所蔵されています。また親世音寺には江戸時代中期の元禄年間(1688~1704年)に発掘された同種の古材を保存しています。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
水城跡
かな
みずきあと
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
福岡県太宰府市、大野城市、春日市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

水城驛下車、二日市驛からは西北四粁、自動車の便がある。西端は筑紫郡水城村吉松の水城驛附近から、東端は同村上水城に至る平野を橫斷して、東西兩丘陵を連ねた土築堤で、中央に御笠川貫流して東西二堤に別たれる。東堤約三二〇米、西堤約七〇〇米あり、幅基底部三七米、頂部四米、高さ約一四米、外側は傾斜急に、內側は緩かで二段をなして居る。東堤は國道により、西堤は鐵道線路によりて何れも裁斷せられ、その工事の折に諸種の遺物竝に築造當時の施設物が出土した。水城は天智天皇三年の工築にかゝり、堤の內部に水を貯へ外敵防備に供へたもので、專らその來襲に備へ、太宰府の防禦となしたものである。奈良時代には天平神護元年三月太宰少貳采女朝臣淨庭を修理水城專知官となした事があるが、藤原末期には既に廢址となつたやうである。鐮倉時代に文永十一年十月蒙古襲來の際には、我が軍博多よりこゝに引上げて根據地となした事がある。東堤の現時國道の通ずる處には水城關と呼ばれた關門の礎石が存し、昭和六年この附近から貯水の調節を計るため敷設せられた水門の木樋の遺構が發見せられ、遺材の二、三は附近の人家及水城小學校等に所藏せられて居る。また親世音寺には元祿年閒に發掘せられた同種の古材を保存して居る。

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