大野城跡

大野城址及四王寺址[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

太宰府跡の後方にそびえる山上にあります。太宰府町および宇美町から、いずれも約2km、大城山を西限、大原山を東限として、その間の四王寺の山谷を中心に、屏風のようにたて廻らされた山頂に、延長5.2kmあまりにおよぶ土塁が、各所に石塁を交えて、不規則な環状にめぐらされた壁塁跡があります。飛鳥時代の天智天皇4年(665年)勅して百済人を遣わして肥前の椽城(基肄城)と同時に南北相対して築営された大野城の遺跡です。水城と同じく太宰府防備を目的としたものとなります。文武天皇2年(698年)太宰府に命じて修築させたことがあります。奈良末期に至り光仁天皇の宝亀5年(774年)、新羅祈祷のために太宰府に四天王塑像4体を造って山上に安置させ、最勝王経四天王護国品を読誦修させるにあたり四王寺が創建され、城は四王寺城とも呼ばれるようになりました。寺運はその後太宰府とともに衰え、鎌倉時代に入って少弐氏によって維持されましたが、室町中期に至り今川了俊が九州探題となり、少弐氏が太宰府を追われることとなり庇護を失って廃城となりました。遺跡は土塁、石塁のほかに城門跡、水門、礎石などを残し、石塁は横獄口、坂本口および宇美口などに遺存し、宇美口のものは俗に百間石垣と呼ばれ、長さ180m、高さ3.5mにおよび、城門跡は国分口、坂本口、太宰府口等にあり礎石、敷石状のものが残っています。また四王寺集落の東北山頂に主殿司の遺跡とされる巨大の礎石群があります。四王寺関係の遺跡は大城山上の毘沙門堂跡、国分口付近の広目天堂跡、太宰府口に近い増長天堂跡、大原山上の持国天堂跡等で礎石、井戸等が遺存し、毘沙門堂石祠の背後からは昭和2年(1927年)経塚を発掘して経筒、石仏等を発見しました。また城跡の南にある岩屋山城跡は安土桃山時代の天正14年(1586年)島津義久が薩南の大軍を率いて豊臣秀吉方の高橋紹運をここに攻めて戦死させた古戦場で、山上にその墓があります。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行

令和に見に行くなら

名称
大野城跡
かな
おおのじょうせき
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
福岡県糟屋郡宇美町四王寺
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

太宰府址の後方に聳ゆる山上に存する。太宰府町及宇美町から、何れも約二粁、大城山を西限とし、大原山を東限として、その閒の四王寺の山谷を中心に、屏風の如くたて廻らされた山頂に、延長五、二〇〇餘米に及ぶ土壘が、諸所に石壘を混へて、不規則に環狀をなして繞らされた壁壘址で、天智天皇四年敕して百濟人を遣はして肥前の椽城(記夷城)と同時に南北相對して築營せしめ給うた大野城の遺址である。水城と同じく太宰府防備の目的に出たものに外ならない。文武天皇二年太宰府に命じて修築せしめた事がある。奈良末期に至り光仁天皇寶龜五年、新羅祈祷の爲めに太宰府をして四天王塑像四軀を造りて山上に安置せしめ、最勝王經四天王護國品を讀誦修せしむるに及び四王寺が創建せられ、城は四王寺城とも稱せられるに至つた。寺運はその後太宰府と共に衰へ、鐮倉時代に入りて少貳氏によりて繼持せられたが、室町中期に至り今川了俊九州探題となり、少貳氏太宰府を追はれるに及び外護を失ひて廢滅した。遺址は土壘、石壘の外に城門址、水門、礎石等を存し、石壘は橫獄口、坂本口及宇美口等に遺存し、宇美口のものは俗に百閒石垣と呼ばれ、長さ一八〇米、高さ三米半に及び、城門址は國分口、坂本口、太宰府口等に存し礎石、敷石樣のものが遺つて居る。また四王寺部落の東北山頂に主殿司の遺址と稱せられる巨大の礎石群が存する。四王寺關係の遺址は大城山上の毘沙門堂址、國分口附近の廣目天堂址、太宰府口に近い增長天堂址、大原山上の持國天堂址等で礎石、井戶等が遺存し、毘沙門堂石祠の背後からは昭和二年經塚を發掘して經筒、石佛等を發見した。また城址の南にある岩屋山城址は天正十四年島津義久が薩南の大軍を率ゐて豐臣秀吉方の高橋紹運をこゝに攻めて戰死せしめた古戰場で、山上にその墓がある。

二日市・太宰府のみどころ