太宰府跡

太宰府址[指定史蹟]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

二日市駅の北2km、水城村にあり、自動車の便があります。宣化天皇の御代、宮家を那津に置いて西海道九国を統括させ、さらに三韓に備えさせたのが太宰府のはじまりですが、太宰の名が史上に始めて現れるのは推古天皇17年(609年)です。那津の官家が後の太宰府の地に移された年代も明らかでありません。天智天皇の時代には太宰府が定置され、水城および大野、基肄の2城を築いて府の防備とし、大宝令の制定によって太宰府の官制が規定されました。このようにして西海諸国の統治と対外警備を兼ねて、外国からの来朝に対応する重要なる官衝となりました。奈良時代に至っていったん廃止されて筑繁都督府が置かれましたが、間もなく復活しました。

その後平安時代の天慶3年(940年)藤原純友の乱に累代の庁舎が焼失してしまい、府政はここから衰えることとなり、のち元弘建武の戦乱を経て室町時代の応永年中(1394~1428年)に至りすべて廃されました。太宰府往還を途中から北折すれば約40mで大門跡の碑石があり、その北約30mにある中門跡の礎石が残存する間を過ぎ、さらに北約120mで正庁跡に達しますが、その途中、道の左右に東庁跡と西庁跡の遺跡があり、前者は9個、後者は8個の礎石がいずれも残っています。正庁跡は一段高く、東西29m、南北14mの広大な土壇上に、36個の雄偉にして精巧、二重、三重に円柱座の造出をもつ礎石が整然として遺存していますが、石材は花崗岩、大きさ径2m内外に達し、円柱座はいずれも直径75cmあります。重層の庁舎甍を連ねて偉観を極めたいわゆる都府楼の中心建物のあった遺跡です。西庁跡の西にある丘上には最近拓かれた太宰府蔵司の遺跡とされる礎石群が露出しています。現在正庁跡土壇の西側に設けられている古瓦参考館には、奈良時代から鎌倉時代におよぶ、各時代の遺瓦、煉瓦、埴瓮土器(土師器)、斎瓮土器(陶器)、瓷器(磁器)その他の出土品を陳列しています。なお正庁跡には江戸時代後期の寛政元年(1789年)亀井南溟の撰文で同人の書になる「太宰府碑」その他2基の碑が建っています。

※底本:『日本案内記 九州篇(六版)』昭和13年(1938年)発行
太宰府都府楼跡 太宰府都府楼跡礎石図

令和に見に行くなら

名称
太宰府跡
かな
だざいふあと
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
福岡県太宰府市観世音寺4-6-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の北二粁、水城村にあり、自動車の便がある。宣化天皇の御代、宮家を那津に置いて西海道九國を總攪せしめ、兼ねて三韓に備へしめ給うたのが、太宰府の濫觴であるが、太宰の名の史上に始めて見えしは推古天皇十七年である。那津の官家が後の太宰府の地に移された年代も詳かでない。天智天皇の朝には太宰府が定置せられ、水城及大野、椽の二城を築いて府の防備とせられ、大寶令の制定によりて太宰府の官制が規定せられた。かくて西海諸國の統治と對外警備を兼ねて、蕃客饗讌の重要なる官衝となつた。奈良時代に至りて一旦廢せられて筑繁都督府が置かれたが、閒もなく舊に復した。

その後天慶三年藤原純友の亂に累代の廳舍燒失の厄に遭ひ、府政これより衰ふるに至り、のち元弘建武の戰亂を經て應永年中に至り全く廢滅に歸した。太宰府往還を途中から北折すれば約四〇米にして大門址の碑石あり、その北約三〇米にある中門址の礎石の殘存する閒を過ぎ、更に北約一二〇米にして正廳址に達するが、その途中道の左右に東廳址竝に西廳址の遺址が存し、前者は九箇、後者は八箇の礎石が何れも殘存して居る。正廳址は一段高く、東西二九米、南北一四米の廣大なる土壇上に、三十六箇の雄偉にして精巧を極め、二重、三重に圓柱座の造出を有する礎石が整然として遺存して居るが、石材は花崗岩、大いさ徑二米內外に達し、圓柱座は何れも徑七五糎(二尺五寸)を有して居る。重層の廳舍甍を連ねて偉觀を極めた所謂都府樓の中心建物の在つた遺址である。西廳址の西方にある丘上には最近拓かれた太宰府藏司の遺址と稱せられる礎石群が露出して居る。現今正廳址土壇の西側に設けられて居る古瓦參考館には、奈良時代から鐮倉時代に及ぶ、各時代の遺瓦、甎、埴瓮土器(土師器)、齋瓮土器(陶器)、瓷器(磁器)その他の出土品を陳列して居る。尙正廳址には寬政元年龜井南溟の撰文で同人の書に成る「太宰府碑」その他二基の碑が建つて居る。

二日市・太宰府のみどころ