一心寺
一心寺[淨土宗]
昭和初期のガイド文
市電天王寺下車、逢坂下の町にあり、四天王寺の西鳥居から約300mにあります。旧四天王の別所で、源空の庵室があり、後白河法皇がここに御幸され、上人とともに日想観を修めたといいます。後の安土桃山時代の慶長年間(1596~1615年)、本誉存岸が再興し、今の寺号に改めましたが、大阪冬の陣に徳川家康が営所を置き、大阪城滅亡の後に城の木材を給付し、堂宇を修理させました。表門は大阪城の玉造口の黒門を移建したものといいます。また大阪夏の陣で戦没した本多忠朝の主従10名の墓や俳人小西来山の墓があります。
※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行
令和に見に行くなら
- 名称
- 一心寺
- かな
- いっしんじ
- 種別
- 見所・観光
- 状態
- 状態違うが見学可
- 備考
- 昭和20年(1945年)の大阪大空襲で焼失、戦後に再建されています。
- 住所
- 大阪府大阪市天王寺区逢阪2-8-69
- 参照
- 参考サイト(外部リンク)
日本案内記原文
市電天王寺下車、逢坂下の町にあり、四天王寺の西鳥居より約三〇〇米にある。舊四天王の別所にして、源空の庵室あり、後白河法皇ここに御幸あり、上人と共に日想觀を修し給うたと云ふ。後慶長年閒本譽存岸再興し、今の寺號に改めたが、大阪冬陣に德川家康營所を置き、大阪城滅亡の後城の殿材を給付し、堂宇を重修せしめた。表門は大阪城の玉造口の黑門を移建したものと云ふ。また大阪夏の陣に戰歿した本多忠朝主從十名の墓及俳人小西來山の墓がある。