大阪市

おおさかし

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大阪市ガイド

京都から東海道本線で西下すれば天王山南麓の山崎を後にして間もなく大阪府に入ります。ここからは南西に向かい、やがて左窓に近く楠公父子の訣別地として知られた桜井駅跡の碑が見られます。このあたりは京阪電車新京阪線と並行して進み、高槻、摂津富田、茨木を過ぎ、吹田操車場を通って吹田を経、間もなく南折して貨物線を西に分岐し、新淀川の鉄橋を渡って大阪市街に入り、さらに西に向かって大阪駅に入ります。

【大阪市】大阪は古く難波と呼ばれ、水陸交通の要衝にあるため、神武天皇もその御東征の際にここに船を泊められたように、日本書紀にも船によって難波崎へ向かうと潮の流れがひどく急だったため浪速国と名付けられたとあります。その後応神天皇の行宮大隅宮もこの地に置かれたと伝わります。仁徳天皇は紀元973年に都をここに遷され高津宮を造営されました。天皇はここに70年あまり住まわれ、屋敷から人々の竈の煙を眺められた事はよく世に知られていますが、天皇はまた堀江を掘り堤を築き、橋を架し道を通じて、治水交通に御心を用いられました。この頃三韓より朝貢の船は皆ここに集まり、その交通も頻繁でした。その後都は再び大和に移されましたが、推古天皇の時代には聖徳太子が四天王寺を建てられ、隋唐との交通も開けて外客接待の新館などがここに建てられました。時代下って孝徳天皇はこの地に都を置いて宮を長柄豊碕宮と名付けられました。聖武天皇も難波宮の造られ、また海港としても大いに賑わい、やがて桓武天皇の御代に至りました。天皇は都を山城に遷され、都と西国の交通は陸路西国街道を使うか、若しくは江口から神崎川を経て尼ヶ崎付近に出るようになったため、ここまで栄えた難波の地も全く退転して葦の名所として歌枕となるまでに荒廃しました。

長く衰退していた難波が再興の緒についたのは明応5年(1496年)親鸞の流れを汲む蓮如が石山本願寺を起してからです。やがて豊臣秀吉が天下に号令するようになってから天正11年(1583年)その居城をここに築いて大阪を発展させるため、堺の町人を移住させました。これ以後城下町として商売軒を並べるようになり、商業都大阪発展の端緒が開かれ、市街の面目もまた一新しました。徳川時代に入ってからはその経済的発展はますます著しく、ついに海内の商権を把握するに至りました。維新後も市勢ますます伸張して明治22年(1889年)4月1日市制の実施により、東西南北の4区が設けられ、明治30年(1897年)4月1日には隣接28町村を併せ、さらに大正14年(1925年)4月1日東成西成の2郡44町村を市域に編入するとともに、従来の4区を8区とし、新併合地域を5区として、13行政区としましたが、昭和7年(1932年)10月1日港および東成の2区をそれぞれ2つに分けて4区としたため、現在15行政区をもつに至りました。こうして今や面積185km²、人口250万を数え、日本最大の経済都市として、さらなる発展の途にあります。

市は大阪平野の西南、淀川の大阪湾に注ぐ大デルタの上に発達したものです。地勢は大体東部および南部に台地状丘陵が連互して天王寺、大阪城付近は上町丘陵と呼ばれ、大体洪積層です。上町丘陵の東北西の三方は低地となり、沖積層の平野となっています。

市の西部海岸地方には干拓地が多く、今町名となっている津守新田、春日出新田、泉尾新田、沖島新田、市岡新田、酉島新田、出来島新田、中島新田などはみな徳川時代の干拓工事によって良田とされたもので、その干拓埋立は現在もなお続行され、大正区鶴町、木津川尻大阪飛行場等は最近の埋立地です。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

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