四天王寺

四天王寺[天臺宗]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電西門前下車、元町にあります。この寺は用明天皇2年(587年)、聖徳太子が蘇我馬子とともに物部守屋を討伐した際、四天王の像を作り頂髪に置いて戦勝を祈願し、寺塔建立の誓願を立てたため、戦後の推古天皇元年(593年)に難波荒陵に造られたものです。以来朝廷の尊崇が厚く、奈良の諸大寺とともに封戸寺田を寄進し、後三条天皇以後は仙洞門院の御幸がたびたびあり、身分の高い人々の参詣が相次ぎ、上下の信仰が特に深いものでした。この寺の西門は昔から極楽の東門と信じられ、夕日が西の海に没するのを観想して浄土を偲ぶ人々も多いところでした。創立以後たびたび火災に遭い、特に鎌倉時代から吉野朝時代を経て戦国時代に至る間には、たびたび敵味方の陣営となり、兵火が堂塔を焼くことが多くありました。豊臣秀吉によって再興された後も兵火の難がありましたが、安土桃山時代の慶長年間(1596~1615年)の再建によりほとんど旧態を取り戻し、江戸時代前期の寛文4年(1664年)の修補に至って、伽藍堂宇が完備されることとなりました。しかしまた江戸時代後期の享和元年(1801年)雷火のため40あまりの建物を失いました。寺伝によるとその後文化9年(1812年)大阪の紙屑屋淡路屋太郎左衛門というものの寄附と勧進によってできあがったのが現在の堂宇です。

四天王寺はこのようにたびたび焼失して、創建当時の古建築はひとつも残っていませんが、堂塔の配置は創建当時の様式を伝えて現代にその規模を示し、中門内の空地に五重塔、金堂および講堂が一直線に前後に並び立っています。現在の境内は約2万m²あり、大小の堂宇40棟あまりがそのなかにあり、参詣者が常に絶えず、古来大阪市内の著名な名所となっています。西方を正門とし、前に石の鳥居があるのがこの寺の特色です。

五重塔 南大門を入り仁王門を経て塔に達します。方三間、江戸末期文久年間(1861~1864年)の再建です。

金堂 五重塔の北にあり、九間八面重層入母屋造造本瓦葺、五重塔と同時期の建築で、本尊如意輪観音像が安置されています。

講堂 金堂の後方にあり、これも文久年間の再建で、阿弥陀三尊像が安置されています。

東大門[国宝] 寺域の東にあり、江戸時代前期の元和4年(1618年)に建築され、享和の火災を免れた四天王寺唯一の古建築です。三間二面、切妻、本瓦葺、前後は庇屋根をもつ少し変わった楼門で、桃山時代末期から江戸初期に行はれた豪華な趣を残しています。

  • 宝物
  • 扇面法華経[国宝]百二枚 紙本著色、胡蝶装、四天王寺の宝物で最も有名なもので、奈良帝室博物館へ12枚、京都博物館へも10枚出陳されています。これは藤原時代に優麗な彩色画を描いた扇面形の料紙に法華経を書き写し、胡蝶装の冊子として奉納したものです。下絵は経の文句とは無関係で、当時上流子女の日常生活から市井一般の風俗に至るまで、変化の限りを写しています。全面に金銀砂子切箔を散らした地に、紅緑群青の濃艶な色彩画となっていて、特に装飾的趣に富んでいます。その筆致は藤原時代の純大和絵風で面貌の描写にはいわゆる引目鍵鼻の筆法を用いています。厳島神社の平家納経の下絵などとともに、藤原末期の優美な大和絵の遺品として最も名高いものです。
  • 千手観音及二天箱仏[国宝]一箇 弘法大師作、源満仲護持仏と伝えています。木造、方形の小厨子に十一面千手観音、両扉に二天を刻出した繊麗巧緻な作で、茨城県小松寺の如意輪観音とともに、藤原末期の優秀な小品芸術です。
  • 観世音菩薩半跏像[国宝]一躯 金銅製、右手で頬を支えた小像です。形相や手法はやや古拙ですが、推古仏の形式を伝えた奈良朝初期の作です。
  • 銀製鍍金光背[国宝]一個 透彫唐草からなる舟形光背で、精巧な鍵刻に優雅な気品が横溢しています。高さ八寸に満たないものですが、小形な銀の小仏像に附属していたことが想像され、前の箱仏とともに藤原末期の風尚を語るよい遺品です。
  • 花烏文銅鏡[国宝]一面 牡丹双鳳に田圃の景を文様としたもので、その意匠と技巧とに鎌倉初期の特色を示しています。
  • 懸守[国宝]伝聖徳太子御所用 七個 藤原時代から公家の婦女らが物語などに身につけたもので、木製の心に錦を張り透金具にて押えて紐を付けてあります。この懸守は金具の手法から室町時代のものです。
  • 丙子椒林劒[国宝]伝聖徳太子御劒 一口 丙子椒林と漢籇の銘があります。太子時代の遺品です。
  • 七星劒[国宝]伝聖徳太子御劒 一口 七星を象嵌したもので、太子時代の遺品です。
  • 舞楽面[国宝]納曽利、陵王 二面 ともに室町時代の作品です。
  • 鍋壺[国宝]一口 威奈真人大村卿骨壺、京都博物館出陳 金銅製、大村卿は越後城司で飛鳥時代の慶雲4年(707年)4月24日越後で没し、その遺骨はこの骨壺に納めて大和国葛城郡栢井山岡に葬られたということです。
※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行
四天王寺境内平面図

令和に見に行くなら

名称
四天王寺
かな
してんのうじ
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
昭和20年(1945年)の大阪大空襲で焼失、戦後に再建されています。
住所
大阪府大阪市天王寺区四天王寺1-11-18
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電西門前下車、元町にある。當寺は用明天皇二年、聖德太子が蘇我馬子と共に物部守屋を討伐せられた時、四天王の像を作り頂髮に置て戰勝を祈願し給ひ、寺塔建立の誓願を立てられたので、戰後推古天皇元年に難波荒陵に造られたのである。爾來朝廷の尊崇厚く、奈良の諸大寺と共に封戶寺田を寄進し給ひ、後三條天皇以後仙洞門院の御幸度々あり、月卿雲客の參詣相次ぎ、上下の信仰特に深かつた。この寺の西門は昔から極樂の東門と信ぜられ、夕日の西の海に沒するを觀想して淨土を偲ぶ人々も多かつた。創立以後度々火災に罹り、殊に鐮倉時代より吉野朝時代を經て戰國時代に至る閒には、度々敵味方の陣營となり、兵火頻頻として堂塔を燒いた。後一旦豐臣秀吉によつて再興されたがまた兵火の難あり、慶長年閒の再建に依り殆んど舊態に復し、寬文四年の修補に及び、伽藍堂宇の完備を見るに至つた。然るにまた享和元年雷火のため四十有餘の建物を失つた。寺傳によるとその後文化九年大阪の紙屑屋淡路屋太郞左衞門と云ふものゝ寄附及勸進によつて出來上つたのが現今の堂宇である。

四天王寺はかくの如く度々燒失して、創建當時の古建築は一も遺存して居ないが、堂塔の配置は創建當時の樣式を傳へて今にその規模を存し、中門內の空地に五重塔、金堂及講堂が一直線に前後に竝び立つて居る。現在境內約二〇〇アールを有し、大小の堂宇四十餘棟その中にあり、參詣者常に絕えず、古來大阪市內著名な名所となつて居る。西方を正門とし、前に石の華表のあるのが當寺の特色である。

五重塔婆 南大門を入り仁王門を經て塔に達する。方三閒、江戶末期文久年閒の再建である。

金堂 五重塔婆の北にあり、九閒八面重層入母屋造造本瓦葺、五重塔婆と同時の建築にして、本尊如意輪觀音像が安置されて居る。

講堂 金堂の後方にあり、これも文久年閒の再建で、阿彌陀三尊像が安置されて居る。

東大門[國寶] 寺域の東邊にあり、元和四年に建築され、享和の火災を免れた四天王寺唯一の古建築である。三閒二面、切妻、本瓦葺、前後は庇屋根を有する一種奇形の樓門で、桃山時代末期より江戶初期に行はれた豪華な趣致を存して居る。

  • 寶物
  • 扇面法華經[國寶]百二枚 紙本著色、胡蝶裝、四天王寺寶物中最も有名なもので、奈良帝室博物館へ十二枚、京都博物館へも十枚出陳されて居る。これは藤原時代の貴紳が優麗な彩色畫を描いた扇面形の料紙に法華經を書寫し、胡蝶裝の册子として奉納したものである。下繪は經の文句とは無關係で、當時上流子女の日常生活より市井一般の風俗に至るまで、變化の限りを寫して居る。全面に金銀砂子切箔を散らした地に、紅綠群靑の濃艷な色彩畫であるから、極めて裝飾的趣致に富んで居る。その筆致は藤原時代の純大和繪風にして面貌の描寫には所謂引目鍵鼻の筆法を用ゐて居る。嚴島神社の平家納經の下繪などと共に、藤原末期の優美な大和繪の遺品として最も名高い。
  • 千手觀音及二天箱佛[國寶]一箇 弘法大師作、源滿仲護持佛と傳へて居る。木造、方形の小厨子に十一面千手觀音、兩扉に二天を刻出した纖麗巧緻な作で、茨城縣小松寺の如意輪觀音と共に、藤原末期の優秀な小品藝術である。
  • 觀世音菩薩半跏像[國寶]一躯 金銅製、右手を以て頬をさゝへた小像である。形相手法稍古拙にして、推古佛の形式を傳へた奈良朝初期の作である。
  • 銀製鍍金光背[國寶]一個 透彫唐草より成る舟形光背で、精巧な鍵刻に優雅な氣品が橫溢して居る。高さ八寸に滿たないから、小形な銀の小佛像に附屬して居たことが想像せられ、前の箱佛と共に藤原末期の風尙を語る好箇の遺品である。
  • 花烏文銅鏡[國寶]一面 牡丹雙鳳に田圃の景を文樣としたもので、その意匠と技巧とに鐮倉初期の特色を示して居る。
  • 懸守[國寶]傳聖德太子御所用 七個 藤原時代から緖紳家の婦女が物語でなどに佩びたる具にて、木製の心に錦を張り透金具にて押へ紐を付けてある。この懸守は金具の手法から室町時代のものである。
  • 丙子椒林劒[國寶]傳聖德太子御劒 一口 丙子椒林と漢籇の銘がある。太子時代の遺品である。
  • 七星劒[國寶]傳聖德太子御劒 一口 七星を象嵌せるもので、太子時代の遺品である。
  • 舞樂面[國寶]納曾利、陵王 二面 共に室町時代の作品である。
  • 鍋壺[國寶]一口 威奈眞人大村卿骨壺、京都博物館出陳 金銅製、大村卿は越後城司で慶雲四年四月二十四日越後に於て卒し、その遺骨はこの骨壺に納めて大和國葛城郡栢井山岡に葬られたのであつた。

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