夕陽丘

夕陽丘
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電稚寺下車、夕陽丘町にあります。四天王寺の西、一心寺の北で高津に至る間の総称です。源空日想観の故事を伝え、また藤原家隆がこの地に隠棲して庵室を結び夕陽庵と号し、難波七首のうち「ちぎりあれば難波の里にやどりきて波の入日ををがみつるかな」の一首を詠じたといい、夕陽丘女学校の北、浄春寺はその跡と伝わります。南に家隆塚と呼ぶ塚がある浄春寺境内には田能村竹田の墓あり、また家隆塚の墓のそばに伊達千尋およびその子陸奥宗光の墓があります。なお一心寺の北に接し安居天神社があり、真田幸村戦死の跡といいます。北に清水寺があり、宝永中京都の清水寺を模して造られ、その堂宇は舞台造となっています。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
夕陽丘
かな
ゆうひがおか
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
大阪府大阪市天王寺区
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電稚寺下車、夕陽丘町にある。四天王寺の西、一心寺の北方で高津に至る閒の總名である。源空日想觀の故事をつたへ、また藤原家隆この地に隱棲して庵室を結び夕陽庵と號し、難波七首のうち「ちぎりあれば難波の里にやどりきて波の入日ををがみつるかな」の一首を詠じたと云ひ、夕陽丘女學校の北方、淨春寺はその跡と傳へ、南方に家隆塚と呼ぶものがある淨春寺境內には田能村竹田墓あり、また家隆塚の墓側に伊達千尋及びその子陸奧宗光墓がある。尙一心寺の北に接し安居天神社あり、眞田幸村戰死の跡と云ふ。北に淸水寺あり、寶永中京都の淸水に擬して造り、その堂宇は舞臺造である。

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