正祐寺の銅鐘

正祐寺銅鐘[國寶]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電上本町八丁目下車、上の宮町にある正祐寺の寺宝で、次の鋳造銘があります。

菩薩戒弟子高麗国興麗府棟標僧彦侑名保 戸長陪戎校尉金珪舎□□□□□ 聖涛天長鴻基地久□□□□□□興 立顧鋳成金鐘一口重五百斤観□□者容端 正声響清高掛於当府内□以寺者□竺謹疏 天禧三年竜集已未十二月 日謹記

天禧は宋の年号で、同3年は高麗の顕宗10年に相当し、日本では後一条天皇の平安時代の寛仁3年(1019年)にあたります。天蓋、仏像、両脇侍、飛天、瑞花紋等を鋳出した優美な朝鮮鐘で、はじめ日向国某所に伝わり、後に明治7年(1874年)、時の住職観空がこれを当地で求めたもので、その旨の追記が刻んであります。

※底本:『日本案内記 近畿篇 下(初版)』昭和8年(1933年)発行

令和に見に行くなら

名称
正祐寺の銅鐘
かな
しょうゆうじのどうしょう
種別
見所・観光
状態
現存しない
備考
昭和20年(1945年)の大阪大空襲で焼失、鐘も失われました。

日本案内記原文

市電上本町八丁目下車、上の宮町にある正祐寺の寺寶で、左の鑄造銘がある。

菩薩戒弟子高麗國興麗府棟標僧彥侑名保 戶長陪戎校尉金珪舍□□□□□ 聖涛天長鴻基地久□□□□□□興 立顧鑄成金鐘一口重五百斤觀□□者容端 正聲響淸高掛於當府內□以寺者□竺謹疏 天禧三年龍集已未十二月 日謹記

天禧は宋の年號で、同三年は高麗の顯宗十年に相當し、我が後一條天皇の寬仁三年に當る。天蓋、佛像、兩脇侍、飛天、瑞花紋等を鑄出した優美な朝鮮鐘で、はじめ日向國某所に傳はり、後明治七年、時の住職觀空がこれを當地に於て求めたもので、その旨の追記が刻してある。

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