東本願寺

東本願寺[眞宗大谷派本山]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電東本願寺前下車、烏丸七条にあります。この寺の宗門は西本願寺と同じく、親鸞上人によって開かれたものですが、その創建は慶長7年(1602年)徳川家康が教如上人に本願寺を東西に分派させた時にあります。慶長8年(1603年)本堂がまずできあがり、万治元年(1658年)祖師堂が落成しましたが、後しばしば火災に罹り、現在の諸堂はすべて明治年間の再建です。そのうち最も大きなものは本堂と大師堂(祖師堂)で、明治13年(1880年)に工を起し同28年(1895年)に落成したものです。その間信仰の厚い多くの婦女が頭髪を切って強靱な毛髪の大綱を製作して献納し、これを巨材牽引の用に当てて大工事を助けたという美談を物語る毛綱が今なお保存され、その一部分が廊下に陳列されています。

本派本願寺とともに日本の宗教界に重きをなし、内地の布教はもとより朝鮮、満洲をはじめ、中国、北米にまで布教を伸ばしています。

本堂は間口二十六間、奥行二十一間の単層入母屋造の大建築で、本尊阿弥陀如来の像が安置されています。祖師堂は本堂の北に続き、間口三十五間、奥行三十二間、重層入母屋造本瓦葺の宏壮な大建築で、親鸞上人の木像が安置されています。

枳殻邸 寺の東、枳殻馬場東玉水町にあり、この寺の別荘でもと周囲に枳殻を植え、生垣としていたので俗に枳殻邸といっています。往昔河原左大臣源融の河原院に属し、陸奥塩竈の風光をまね、摂津難波の津から潮水を汲んできて焚かせた風流の跡と伝えています。江戸時代前期の寛永年中(1624~1644年)ここに桃山の旧構を移し、石川丈山、小堀遠州によって林泉の風致を修築させたものといいます。園中に滴翠軒、傍花閣以下の十三景があります。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行
東本願寺 東本願寺境内平面図

令和に見に行くなら

名称
東本願寺
かな
ひがしほんがんじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市下京区烏丸通七条上ル常葉町754
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電東本願寺前下車、烏丸七條にある。當寺の宗門は西本願寺と同じく、親鸞上人によつて開かれたものであるが、その創建は慶長七年德川家康が敎如上人をして本願寺を東西に分派せしめた時にある。慶長八年本堂先づ成り、萬治元年祖師堂が落成したが、後屢火災に罹り、現在の諸堂はすべて明治年閒の再建である。そのうち最も大なるは本堂と大師堂(祖師堂)で、明治十三年に工を起し同二十八年に落成したものである。その閒信仰厚き多くの婦女が頭髮を斷ちて强靱な毛髮の大綱を製作して獻納し、以て巨材牽引の用に當てゝ大工事を助けたと云ふ美談を物語る毛綱が今尙保存され、その一部分が廊下に陳列されて居る。

當寺は本派本願寺と共に我が國の宗敎界に重きをなし、內地の布敎はもとより朝鮮、滿洲をはじめ、支那、北米にまで布敎を伸ばして居る。

本堂は閒口二十六閒、奧行二十一閒の單層入母屋造の大建築で、本尊阿彌陀如來の像が安置されて居る。祖師堂は本堂の北に續き、閒口三十五閒、奧行三十二閒、重層入母屋造本瓦葺の宏壯な大建築で、親鸞上人の木像が安置されて居る。

枳殼邸 當寺の東方枳殼馬場東玉水町にあり、當寺の別莊でもと周圍に枳殼を植ゑ、生垣として居たので俗に枳殼邸と云つて居る。往昔河原左大臣源融の河原院に屬し、陸奧鹽竈の風光に倣ひ、攝津難波の津より潮水を汲み來つて焚かしめた風流の跡と傳へて居る。寬永年中これに桃山の舊構を移し、石川丈山、小堀遠州によつて林泉の風致を修築せしめたものと云ふ。園中に滴翠軒、傍花閣以下の十三景がある。

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