下鴨神社(賀茂御祖神社)

賀茂御祖神社[官幣大社]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電今出川河原町下車、下鴨宮河町にあります。俗に下鴨神社と呼ばれ、玉依姫命および賀茂健角身命を祀っています。山城の一宮で延喜の制においては名神大社に列し、その起原は極めて古く、平安奠都の際には王城の鎮護とされ、以来朝廷の崇敬特に厚く、公私寄進の神領は古より数十か所あり、江戸時代には540石あまりにおよんでいました。

境内は極めて広く高野川、賀茂川の合流する三角洲のところに位置を占め、賀茂川出町に架された葵橋を東に渡り北に折れて進むと程なく一の鳥居に達します。これを過ぎて社地に入ると、右に泉川、左に瀬見の小川が流れ、老松多く、風致に富む、室町時代の古戦場糺の森はすなわちこれです。さらに参道を北に進み、二の鳥居および三の鳥居を過ぎると正面の楼門に達します。檜皮葺の丹塗で左右から廻廊をめぐらしています。門を入ると舞殿があり、その左には神服殿右に細殿、橋殿があります。さらに進むと中門(四脚門)があり、その左には預屋、中門を入ると幣殿、祝詞屋、さらにその奥に本殿があります。本殿は素木造で三間社流造、江戸時代末期の文久3年(1863年)の改築、その他の社殿は江戸時代前期の寛永5年(1628年)の再建ですが、よく古式を伝え、多くは檜皮葺丹塗の建築で、本殿以下各殿、楼門、廻廊等皆国宝に指定されています。

例祭は5月15日、古来有名な葵祭で極めて優雅な祭礼です。当日は未明に勅使以下京都御所に参集し装束を着て、列を整え、午前8時宜秋門から出て南に折れ、さらに東行して建礼門前を過ぎ、大宮御所の北に沿って清和院御門を出て、河原町通を北に、出町から葵橋を渡り、剣先から北行して本社に到着するものです。この行列を見るには葵橋のたもとあるいは河原が最もよく、京都御所前あるいは賀茂川堤から見るのもいい。

※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行
下賀茂神社 賀茂葵祭

令和に見に行くなら

名称
下鴨神社(賀茂御祖神社)
かな
しもがもじんじゃ(かもみおやじんじゃ)
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市左京区下鴨泉川町59
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電今出川河原町下車、下鴨宮河町にある。俗に下賀茂神社と稱し、玉依姬命及賀茂健角身命を祀つて居る。山城の一宮で延喜の制に於ては名神大社に列し、その起原極めて古く、平安奠都の際には王城の鎭護とせられ、以來朝廷の崇敬殊に厚く、公私寄進の神領は古より數十箇所あり、江戶時代には五百四十石餘に及んで居た。

境內極めて廣く高野川、賀茂川の合流する三角洲の處に位置を占め、賀茂川出町に架せられた葵橋を東に渡り北に折れて進むと程なく一の鳥居に達する。これを過ぎて社地に入ると、右に泉川、左に瀨見の小川が流れ、老松多く、風致に富む、室町時代の古戰場糺の森は卽ちこれである。更に參道を北に進み、二の鳥居及三の鳥居を過ぎると正面の樓門に達する。檜皮葺の丹塗で左右より廻廊をめぐらして居る。門を入ると舞殿があり、その左には神服殿右に細殿、橋殿がある。更に進むと中門(四脚門)があり、その左には預屋がある、中門を入ると幣殿、祝詞屋、更にその奧に本殿がある。本殿は素木造で三閒社流造、文久三年の改築、その他の社殿は寬永五年の再建であるが、よく古式を傳へ、多くは檜皮葺丹塗の建築で、本殿以下各殿、樓門、廻廊等皆國寶に指定されて居る。

例祭は五月十五日、古來有名な葵祭で極めて優雅な祭禮である。當日は未明に敕使以下京都御所に參集し裝束を着し、列を整へ、午前八時宜秋門より出で南に折れ、更に東行して建禮門前を過ぎ、大宮御所の北に沿うて淸和院御門を出で、河原町通を北に、出町から葵橋を渡り、劍先から北行して本社に到着するのである。この行列を拜するには葵橋の袂或は磧が第一で、京都御所前或は賀茂川堤から拜するのもよい。

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