西本願寺

西本願寺[眞宗本派本山]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

市電七条堀川下車、堀川通七条上ルにあります。鎌倉時代の文永9年(1272年)親鸞上人の娘、覚信尼が東山大谷に廟宇を創建して、真宗の開祖親鸞の影像を安置した御影堂が起こりです。その後しばしば戦乱に遭い、本山を山城の山科、大阪の石山その他に移しましたが、天正年間(1573~1592年)豊臣秀吉から現在の場所に寺地40万km²ほどの寄附を得たことで本山の基礎がはじめてさだまりました。以来300年間にわたり浄土真宗本願寺派の本山として真宗の宣敷布教につとめ、現在別院35、末寺約1万、檀徒および信徒約726万を数え、国内はもとより、ハワイ、北米等へも布教に努めています。

現存の堂宇はいずれも元和3年(1617年)の大火災後に新築され、または移建されたもので、まず総門を入ると広い境内の正面南北に大師堂と本堂(阿弥陀堂)とが並んでいます。いずれも江戸時代の建築ですが、他の重要な諸建築は他から移建されたもので、いずれも桃山時代の遺構で大師堂の西南に隣接して虎の間、玄関、浪の間、太鼓の間、対面所、白書院、黒書院、能舞台等があり、また境内の東南隅には飛雲閣、浴室、鐘楼等があり、南側には四脚門があります。これらの古建築はすべて国宝に指定され、その室内には華麗な襖絵、欄間の彫刻等桃山時代の美術を代表する傑作が少なくありません。

大師堂[国宝] 総門を入ると正面向かって左にある大堂宇で、祖師堂または御影堂とも称し、宗祖親鸞聖人の像を安置しています。桁行七間、梁間九間、単層、屋根は入母屋造、本瓦葺で寛永13年(1636年)の建築です。正面の柱はすべて扉を立てて出入を自由としていて、外陣を内陣よりも広く取り、真宗仏寺の模範的建築です。

本堂[国宝] 大師堂の向かって右にあり、本尊阿弥陀像を安置する阿弥陀堂で桁行五間、梁間七間、単層、屋根は本瓦葺で大師堂よりやや小さく、宝暦10年(1760年)の建築です。大師堂とともに江戸時代における真宗伽藍の好典型です。

虎の間、太鼓の間、浪の間、玄関[国宝] 大師堂の南新虎の間をぬけて長廊下を南西に進むと、伏見桃山城の遺構と伝わる虎の間、太鼓の間、浪の間および玄関があります。これらは互いに接続して一屋となり、書院に附属する建造物で、寛永9年(1632年)に伏見桃山城から書院とともにここへ移建されたものといいます。

書院[国宝] 太鼓の間の西にある能舞台に正面して建っています。桁行十八間、梁間十四間、屋根は入母屋、妻入造、本瓦葺の大建築です。桃山城の遺構で寛永9年に移建、内部は対面所、白書院、菊の間、雁の間、雀の間等に分かれ、その様式は桃山時代における最も雄大な書院造で、その室内装飾は桃山城の豪華さの影響が見られるものです。そのなかで最も観るべきものは対面所です。

対面所は最も広い部屋で上下2段に分かれ、上段は38畳、下段は162畳を敷き、左に椽座敷があり、前に広椽を設け、天井を支えるため縦に2列の柱が並列しています。上段の中央には床の間があり、その右に帳台飾を設け、左に違棚、袋棚を作り、さらに左には一段高く付書院があります。その前面には円形の窓を開いています。上段と下段との間にある欄間の透彫は意匠非常に雄大で雲鶴を現しています。上段ならびに付書院の壁および帳台飾には狩野探幽の筆になる中国史上の事蹟が描かれています。金地に極彩色を施した極めて華麗な装飾画です。下段右側の壁貼には、金地に巨松と鶴を描き、左側および正面の腰高障子の腰板には、花鳥の彩画があります。これらはすべて狩野了慶の筆とされています。

天井は上段の間および付書院の間は折上格天井となし、下段の間は単に格天井となっています。格天井の格椽はすべて黒塗に錺金具を用い、格間には錦花鳥、丸竜その他の文様を描き、彩色を施しているため、下から見上げると実に豪華な感じを与えています。要するにこの部屋は壮大華麗な桃山時代大広間の好標本です。

白書院は対面所上段の間の後方に隣接していますが、この書院もまた上中下の三段に分かれ、椽座敷があります。規模は小さいものですが華麗な貼付絵があり、その筆者を狩野興意と伝えています。欄間に施された藤花の透彫は、雄麗を極めた傑作です。

四脚門[国宝] 境内の南側通用門の東隣、通路に面して建っています。これも桃山城の遺構で寛永9年に書院とともに移し建てられたものです。高さと豪放な気分においては豊国神社の唐門におよばない感じはありますが、その彫刻の精巧華麗な点においては、はるかに前者を凌ぐものがあります。屋根は前後に思い切って大きな唐破風を付け、左右を入母屋とし、檜皮で葺いています。唐破風下、左右側壁、唐戸等は皆獅子、麒麟、竜虎、牡丹等の透彫をもって充たし、拳鼻にも獅子および牡丹の丸彫があります。特に冠木上には巨大な蟇股を置き、その内部に思う存分翼尾を張った孔雀を透形にし、その左右に松竹を配しているのはいずれも雄大な風があります。内外各部すべて黒塗地に華美な金具を盛んに使用し、彩色を施した彫刻にも多くの金箔を使用したあとがあり、形状は整斎、意匠も豊富で最もよく桃山時代の特質である豪華雄麗の気象を現し、しかも鑑賞すべき古色を持っています。

飛雲閣[国宝] 境内の東南隅にあります。聚楽第の遺構と伝え、寛永年間に移建されたといいます。聚楽第は天正15年豊臣秀吉が京都に建てた邸宅ですが、竣成後間もなく破壊され、現在遺存しているものは僅かに飛雲閣、黄鶴台および大徳寺の唐門の3棟に過ぎません。飛雲閣は滴翠園中にあって、滄浪池に臨んで建てられた三層閣です。その様式は書院とは全く異なり、軽快な別荘建築に属しています。初層には主室が2つあります。ひとつを招賢殿と呼び、上段、中段に分かれ、上段には付書院があり、襖および壁には永徳の筆と伝わる雪中の柳が描かれています。淡く金粉を散らした紙本に水墨をもって描写したもので、恬淡優雅な趣致に富み、建築の様式とよく調和しています。この間は柳の絵があるので柳の間とも呼ばれます。次の間の襖絵には瀟湘八景が描かれ、室の前方、池に面して船入の間があり、その上に唐破風を作って玄関とし、下に石階があって滄浪池に浮べた船を乗りつけるようになっています。

第二層にも上段および下段の間があり、四方に雨椽を付け、勾欄をめぐらしています。上段の間の天井の貼紙には山楽の筆とされる葡萄に栗鼠、壁には三十六歌仙の絵があるので、また歌仙の間ともいいます。第三層は滴星楼と呼び、床には元信の筆と伝わる富士山が霞のなかに微かに描き出されています。四方に壁を塗り、窓を開いています。この建築は平面が非常に複雑なため、その結果は立面にも影響し、外部から見ると四面各々その観を異にし、屋根の形にも入母屋あり、唐破風あり、四注あり、かつその流れもさまざまな形状をしていて、変化に富んだ輪廓を有し、庭園とよく調和して諧調の美を呈しています。全体として瀟洒な茶室建築の模範とすべきもので、桃山時代における茶趣味の一面を現した稀代の傑作です。

浴室[国宝] 廻廊をもって飛雲閣の西に連なっています。黄鶴台と呼ばれ、十一間四面、単層四注造、杮葺、飛雲閣と同時の建築です。建物の内部は床の高さの各異なった三室からなり、最高の室は脱衣室で、正面は池に面し、大きな明障子となっているから入浴後に涼をとるのにも適しています。後方の低い木階を下りたところは控室で、その奥に浴室があります。浴室は南北4.5m、東西5.5m、床は中央に傾斜した板張で排水の便をはかっています。部屋の正面左寄に唐破風造家形の蒸風呂が据えてあります。底は簀張となり、下から蒸気を通すようになっています。

鐘楼[国宝] 飛雲閣の北、滴翠園の東北隅の小高いところにあります。桁行梁間各182cm、単層、切妻造、本瓦葺の建築で、その手法の奇抜にして装飾の豪華な点は、明らかに桃山時代の特質を示したものです。その中には、もと広隆寺にあった国宝の銅鐘が懸かっています。

  • 宝物
  • 慕帰絵詞[国宝] 十巻 紙本著色、本願寺第三世覚如の絵伝です。絵の筆者は巻の第二、五、六、八の4巻が藤原隆章(如心)、第三、四、九、および十の4巻が隆昌で、第一および第七の2巻は中古紛失したのを、文明14年に掃部助久信に描かせたものです。室町時代の絵巻として非常に傑作です。
  • 雪中柳鷺図[国宝] 一幅 絹本著色、中央水辺に近く雪を乗せた老柳と一群の白鷺が描かれています。白鷺は翼を広げて水に入ろうとするもの、あるいは空から飛んできたもの、土手の上に俯いたり仰いだりするものもあってその様子は一様でなく、雪の凍りついた柳枝を中心として、寒中における白鷺の活躍する天地を描写したもので、寺伝には宋の趙仲穆の筆と伝えていますが、明初の名作として賞すべきものです。
※底本:『日本案内記 近畿篇 上(初版)』昭和7年(1932年)発行
西本願寺飛雲閣 西本願寺境内平面図

令和に見に行くなら

名称
西本願寺
かな
にしほんがんじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

市電七條堀川下車、堀川通七條上ルにある。當寺は文永九年親鸞上人の女、覺信尼が東山大谷に廟宇を創建して、眞宗の開祖親鸞の影像を安置せし御影堂に起り、その後屢々戰亂に會し、本山を山城の山科、大阪の石山その他に移したが、天正年閒豐臣秀吉から今の處に寺地十餘萬步の寄附を得たので本山の基礎が始めて定つたのである。爾來三百餘年閒當寺は淨土眞宗本願寺派の本山として眞宗の宣敷布敎につとめ、現今別院三十五、末寺約一萬、檀徒及信徒約七百二十六萬を算し、內地はもとより、ハワイ、北米等へも布敎に努めて居る。

現存の諸堂宇は何れも元和三年の大火災後に新築され、または移建されたもので、先づ總門を入ると廣い境內の正面南北に大師堂と本堂(阿彌陀堂)とが竝んで居る。何れも江戶時代の建築であるが、他の重要な諸建築は他より移建されたもので、何れも桃山時代の遺構にして大師堂の西南に鄰接して虎の閒、玄關、浪の閒、太鼓の閒、對面所、白書院、黑書院、能舞臺等があり、また境內の東南隅には飛雲閣、浴室、鐘樓等があり、南側には四脚門がある。これ等の古建築は、すべて國寶に指定され、その室內には華麗な襖繪、欄閒の彫刻等桃山時代の美術を代表せる傑作が少くない。

大師堂[國寶] 總門を入ると正面向つて左にある大堂宇で、祖師堂または御影堂とも稱し、宗祖親鸞聖人の像を安置して居る。桁行七閒、梁閒九閒、單層、屋根は入母屋造、本瓦葺で寬永十三年の建築である。正面の柱はすべて扉を立てゝ出入を自由ならしめ、外陣を內陣よりも廣く取り、眞宗佛寺の模範的建築である。

本堂[國寶] 大師堂の向つて右にあり、本尊阿彌陀像を安置せる阿彌陀堂で桁行五閒、梁閒七閒、單層、屋根は本瓦葺で大師堂より稍小さく、寶曆十年の建築である。大師堂と共に江戶時代に於ける眞宗伽藍の好典型である。

虎の閒、太鼓の閒、浪の閒、玄關[國寶] 大師堂の南新虎の閒をぬけて長廊下を南西に進むと、伏見桃山城の遺構と傳ふる虎の閒、太鼓の閒、浪の閒及玄關がある。これらは互に接續して一屋を成し、書院に附屬する建造物で、寬永九年に伏見桃山城から書院と共にここへ移建されたものと云ふ。

書院[國寶] 太鼓の閒の西にある能舞臺に正面して建つて居る。桁行十八閒、梁閒十四閒、屋根は入母屋、妻入造、本瓦葺の大建築である。桃山城の遺構で寬永九年に移建、內部は對面所、白書院、菊の閒、雁の閒、雀の閒等に別かれ、その樣式は桃山時代に於ける最も雄大な書院造で、その室內裝飾は桃山城豪華の餘影を髣髴せしめて居る。その中で最も觀るべきものは對面所である。

對面所は最も廣濶な室で上下二段に別かれ、上段は三十八疊、下段は百六十二疊を敷き、左に椽座敷があり、前に廣椽を設け、天井を支へるため縱に二列の柱が竝列して居る。上段の中央には床の閒があり、その右に帳臺飾を設け、左に違棚、袋棚を作り、更に左には一段高く附書院がある。その前面には圓形の窓を開いて居る。上段と下段との閒にある欄閒の透彫は意匠頗る雄大で雲鶴を現はして居る。上段竝に附書院の壁及帳臺飾には狩野探幽の筆になる支那史上の事蹟が描かれて居る。金地に極彩色を施した極めて華麗な裝飾畫である。下段右側の壁貼には、金地に巨松と鶴を描き、左側及正面の腰高障子の腰板には、花鳥の彩畫がある。これらは總て狩野了慶の筆と稱されて居る。

天井は上段の閒及附書院の閒は折上格天井となし、下段の閒は單に格天井となつて居る。格天井の格椽はすべて黑塗に錺金具を用ゐ、格閒には錦花鳥、丸龍その他の文樣を描き、彩色を施して居るため、下から見上げると實に豪華な感じを與へて居る。要するにこの室は壯大華麗な桃山時代大廣閒の好標本である。

白書院は對面所上段の閒の後方に鄰接して居るが、この書院もまた上中下の三段に別かれ、椽座敷がある。規模は小さいが華麗な貼附繪があり、その筆者を狩野興意と傳へて居る。欄閒に施された藤花の透彫は、雄麗を極めた傑作である。

四脚門[國寶] 境內の南側通用門の東鄰、通路に面して建つて居る。これも桃山城の遺構で寬永九年に書院と共に移し建てられたのである。高さと豪放な氣分に於ては豐國神社の唐門に及ばない感じはあるが、その彫刻の精巧華麗な點に於ては、遙に前者を凌ぐものがある。屋根は前後に思ひ切つて大きな唐破風を附け、左右を入母屋となし、檜皮で葺いて居る。唐破風下、左右側壁、唐戶等は皆獅子、麒麟、龍虎、牡丹等の透彫を以て充たし、拳鼻にも獅子及牡丹の丸彫がある。特に冠木上には巨大な蟇股を置き、その內部に思ふ存分翼尾を張つた孔雀を透形にし、その左右に松竹を配して居るのは何れも雄大な風がある。內外各部盡く黑塗地に華美なる金具を盛に使用し、彩色を施した彫刻にも多くの金箔を使用したあとがあり、形狀整齋意匠豐富で最もよく桃山時代の特質たる豪華雄麗の氣象を現はし、しかも掬すべき古色を持つて居る。

飛雲閣[國寶] 境內の東南隅にある。聚樂第の遺構と傳へ、寬永年閒に移建されたと云ふ。聚樂第は天正十五年豐臣秀吉が京都に建てた邸宅であるが、竣成後閒もなく破壞せられ、今日遺存して居るものは僅かに飛雲閣、黃鶴臺及大德寺の唐門の三棟に過ぎない。飛雲閣は滴翠園中にあつて、滄浪池に臨んで建てられた三層閣である。その樣式は書院とは全く異り、輕快な別墅建築に屬して居る。初層には主室が二つある。一を招賢殿と呼び、上段、中段に分かれ、上段には附書院があり、襖及壁には永德の筆と傅ふる雪中の柳が描かれて居る。淡く金粉を散らした紙本に水墨を以て描寫したもので、恬淡優雅な趣致に富み、建築の樣式とよく調和して居る。この閒は柳の繪があるので一に柳の閒とも稱する。次の閒の襖繪には瀟湘八景が描かれ、室の前方、池に面して船入の閒があり、その上に唐破風を作つて玄關となし、下に石階があつて滄浪池に浮べた船を乘りつける樣になつて居る。

第二層にも上段及下段の閒があり、四方に雨椽を附け、勾欄をめぐらして居る。上段の閒の天井の貼紙には山樂の筆と稱する葡萄に栗鼠、壁には三十六歌仙の繪があるので、また歌仙の閒とも云ふ。第三層は滴星樓と呼び、床には元信の筆と傳ふる富士山が霞の中に微かに描き出されて居る。四方に壁を塗り、窓を開いて居る。この建築は平面頗る複雜なるため、その結果は立面にも影響し、外部から見ると四面各々その觀を異にし、屋根の形にも入母屋あり、唐破風あり、四注あり、且つその流れも樣々な形狀を成し 變化に富める輪廓を有し、庭園とよく調和して諧調の美を呈して居る。全體として瀟洒たる茶室建築の模範とすべきもので、桃山時代に於ける茶趣味の一面を現はした稀代の傑作である。

浴室[國寶] 廻廊を以て飛雲閣の西に連つて居る。黃鶴臺と稱し、十一閒四面、單層四注造、杮葺、飛雲閣と同時の建築である。建物の內部は床の高さの各異つた三室から成り、最高の室は脫衣室で、正面は池に面し、大きな明障子となつて居るから浴後涼をとるにも適して居る。後方の低い木階を下りた所は控室で、その奧に浴室がある。浴室は南北二閒半、東西三閒、床は中央に傾斜せる板張で排水の便を計つて居る。室の正面左寄に唐破風造家形の蒸風呂が据ゑてある。底は簀張となり、下から蒸氣を通ずる樣になつて居る。

鐘樓[國寶] 飛雲閣の北方、滴翠園の東北隅の小高い處にある。桁行梁閒各一閒、單層、切妻造、本瓦葺の建築で、その手法の奇拔にして裝飾の豪華なるは、明かに桃山時代の特質を示したものである。その中には、もと廣隆寺にあつた國寶の銅鐘が懸つて居る。

  • 寶物
  • 慕歸繪詞[國寶] 十卷 紙本著色、本願寺第三世覺如の繪傳である。繪の筆者は卷の第二、五、六、八の四卷が藤原隆章(如心)、第三、四、九、及十の四卷が隆昌で、第一及第七の二卷は中古紛失したのを、文明十四年に掃部助久信に畫かせたものである。室町時代の繪卷として頗る傑作である。
  • 雪中柳鷺圖[國寶] 一幅 絹本著色、中央水濱に近く雪を帶びた老柳と一群の白鷺が描かれて居る。白鷺は翼を張つて水に入らんとするもの、或は空より飛び來るもの坡上に俯仰するものありてその態一ならず、雪の凍りついた柳枝を中心として、寒中に於ける白鷺の活躍せる天地を描寫したもので、寺傳には宋の趙仲穆の筆と傳へて居るが、明初の名作として賞すべきものである。

洛中のみどころ