旧弘道館

舊弘道館
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

県庁の背面にあたり、正面は旧水戸城の大手橋に面しています。水戸の藩学で藩主徳川斉昭の創建となり、江戸時代後期の天保12年(1841年)その開館式をあげたものです。本館、文館、武館、医学館などあって水戸学の精髄を発揮したところですが、明治元年(1868年)戊辰戦争で火災にかかり、番所、正門、本館および本館に附属する至善堂、賄所を残しほかを焼失しました。現存建築物のところどころに弾痕が残るのはこの時の名残です。本館は学校御殿と称され、弘道館の主要な建物です。瓦葺で間口約22m、奥行18mを有し質素ですが剛健な建築です。間口三間奥行3.6mの玄関には斉昭の筆になる弘道館の扁額が掲げられ、ここから登ると1.8m幅で長さ約11mのケヤキの板椽が横長くあります。その奥に24畳を敷く一室があります。この室の左に接する三室が正庁でした。正庁の三面には幅一間の入側と濡椽があり、ここは藩主以下重臣等が臨席して文武の試業や諸般の儀式をあげたところです。至善堂は正庁の東北から長い廊下によって連結した瓦葺の建物で4室からなり、藩主の控室であるとともにその子弟講学の場所にあてられていました。明治維新の際前将軍徳川慶喜が水戸に避難した時はここにあって朝廷に対して恭順の意を表しました。なお庭内には孔子廟、鹿島神社、弘道館記碑、警鐘、種梅記碑などがあります。その間に多くの梅樹があって風致を添えています。弘道館およびその庭園は指定の史蹟です。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
旧弘道館
かな
きゅうこうどうかん
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
茨城県水戸市三の丸1-6-29
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

縣廳の背面に當り、正面は舊水戶城の大手橋に面して居る。水戶の藩學で藩主德川齊昭の創建にかゝり、天保十二年その開館式をあげたものである。本館、文館、武館、醫學館などありて水戶學の精髓を發揮したところであるが、明治元年戊辰役に火災にかゝり、番所、正門、本館及本館に附屬せる至善堂、賄所を殘し他を燒失した。現存建築物の所々に彈痕を存するはこの時の名殘である。本館は學校御殿と稱され、弘道館の主要なる建物である。瓦葺で閒口約二二米(十二閒)奧行一八米(十閒)を有し質素であるが剛健な建築である。閒口三閒奧行三米六(二閒)の玄關には齊昭の筆になる弘道館の扁額が揭げられ、こゝから登ると一米八(一閒)幅で長さ約一一米(六閒)の欅の板椽が橫長くある。その奧に二十四疊を敷く一室がある。この室の左に接する三室が正廳であつた。正廳の三面には幅一閒の入側と濡椽があり、こゝは藩主以下重臣等の臨席して文武の試業や諸般の儀式をあげた所である。至善堂は正廳の東北から長い廊下によつて連結した瓦葺の建物で四室より成り、藩主の控室であると共にその子弟講學の場所に充てられて居た。明治維新の際前將軍德川慶喜が水戶に避けし時はこゝにあつて朝廷に對して恭順の意を表した。尙庭內には孔子廟、鹿島神社、弘道館記碑、警鐘、種梅記碑などがある。その閒に多くの梅樹ありて風致を添へて居る。弘道館及びその庭園は指定の史蹟である。

水戸・大洗のみどころ