水戸城跡

水戶城址
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

水戸駅の北300m、上市の東部となる丘陵で、要害となり東西1.5km、南北500m、自然の谿谷を利用した空濠によって3部に分かれています。東部は本丸で中央を二の丸とし、西部は三の丸、いずれも土塁を残存しています。本丸は俗に佐竹城と呼ばれ江戸時代以前の築造です。二の丸は江戸時代に築かれ、城の主要部をなしたところで、南崖際に天守閣を遺存し、三の丸には弘道館があり、旧大手門の建物が残っています。城はもと常陸大椽の城地で、その後江戸氏および佐竹氏の居城となり、次いで徳川氏の所有となり、江戸時代前期の慶長14年(1609年)徳川家康の第11子頼房を住まわせ三十五万石に封じ、徳川御三家のひとつとして子孫相継ぎ明治に至りました。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行
水戸城跡

令和に見に行くなら

名称
水戸城跡
かな
みとじょうあと
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
昭和20年(1945年)の空襲で天守閣は焼失しました。
住所
茨城県水戸市三の丸2-9
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

驛の北三〇〇米、上市の東部をなす丘陵で、要害をなし東西一粁半、南北五〇〇米、自然の谿谷を利用した空濠によつて三部に別たる。東部は本丸で中央を二の丸とし、西部は三の丸、何れも土壘を殘存して居る。本丸は俗に佐竹城と呼ばれ江戶時代以前の築造である。二の丸は江戶時代に築かれ、城の主要部をなした處で、南方崖際に天守閣遺存し、三の丸には弘道館があり、舊大手門の建物が殘つて居る。城はもと常陸大椽の城地で、その後江戶氏及佐竹氏の居城となり、次いで德川氏の有に歸し、慶長十四年德川家康の第十一子賴房を居らしめ三十五萬石に封じ、德川御三家の一として子孫相繼ぎ明治に至つた。

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