吉田口富士登山道

吉田口富士登山道
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

北口本宮冨士浅間神社の後から馬返しまで5.5kmの間馬車が通じ、五合目まで13kmの間は馬に乗って行くことができます。神社の西100m、登山路の南側に大塚を見、さらに諏訪森御料林を眺め、その一部の赤松の間に分け入ります。馬返しまでは勾配平均4度の裾野で途中に大石茶屋、中の茶屋があります。このあたり山頂から噴出した砂礫は、幾分分解して土壌化しているので、道路はやや固く足許も確かで、御殿場口、須走口に比べ歩行が安易です。大石茶屋のあたりはつつじが原です。中の茶屋の下約700mのところに岐路があり、東南へ進むこと1kmで泉瑞に達し、さらに南1kmで雁の穴に至ります。泉瑞は吉田の水道水源です。雁の穴は熔岩トンネルの一種で普通の横洞のほかに数個の独立の竪穴があります。この竪穴の存在は珍らしいものとされています。

中の茶屋から東北に向かい1.5km進めば涸谷があります。その北岸は剣丸尾熔岩流の絶壁で、丸尾はこのあたりで幅約1kmあります。その両側に近く熔岩洞穴があります。北のものを旧胎内、南のものを新胎内と呼び、旧胎内は総延長65m、巡検者の多い点と信仰の対象である点において、富士の熔岩洞穴のなかでも第一のものです。洞内には熔岩鍾乳石が垂下します。新胎内は総延長60.5m。

馬返しに至れば裾野は尽きて富士山の本体となり、ここから五合目までは6kmで、平均傾斜7度。一合目に至れば広葉喬木帯に入り、深山桜、ナナカマド、ヤハズハンノキ、ソウシバ、ナツツバキ、コバノトネリコなどを主としてウラジロ、モミ、コメツガが混在しています。二合目にはコメツガ、シラビが次第に多くなり、小室浅間神社はその密林に埋まっています。三合目は純粋の針葉喬木帯になり、陰草としてはゴゼンタチバナが目につきます。またフジマツ、ゴヨウマツの間にシャクナゲが混ざっています。次にシラビの純林があり、四合目を過ぎればミヤマハンノキ、ヤハズハンノキが多くなりカラマツが小さくなります。五合目は樹木線と称すべきところで、喬木帯は尽きて灌木帯となります。ここは山中第一の聚落地で休泊所、救護所などの設があります。精進口登山道の分岐点、御中道の出発点です。ここから先は荒い砂礫と磊々とした岩盤の裸出するいわゆる石山三里です。五合目から八合目までは4kmで、その間には約20度の急坂があります。植物には岩間にイタドリやミヤマハンノキがあるのみで展望が広いところです。六合目との間に経ヶ岳という熔岩塊があります。鎌倉時代の文永6年(1269年)日蓮聖人が百日の間法を修した道場で、手書の経巻を埋めたところと伝えています。それから上には熔岩流の断絶して残ったものがところどころにあります。砂走りの沢の北に絶壁となる屏風岩、七合目の鎌岩、七合三勺の亀岩、七合五勺の烏帽子岩などはそれです。これらの岩間にはイタドリ、コケモモがあり、シャクナゲ、ミヤマハンノキの喬木がはい、薬草として名高いオニクも発見されます。烏帽子岩のほとりには富士講開祖から6代目の行者で、31日間断食して江戸時代中期の享保18年(1733年)入定したといふ身禄の遺骨を納めた入定窪があります。その左の岩壁からは清水が滴り、八合目で須走口と合します。

八合目から頂上まで1kmの間を胸突八丁といいます。平均傾斜24度、登攀最も困難なところです。普通富士浅間神社から馬返しまでは1時間40分、それから五合目までも1時間40分、それから八合目までは3時間、胸突八丁は2時間を要します。

御来迎を拝するためには九合目以上がよい。特にその上方日の御子石という一円石の上において拝するのが最もよいです。胸突八丁を攀ぢ終れば頂上の東北端久須志神社のそばに達します。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
吉田口富士登山道
かな
よしだぐちふじとざんどう
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
住所
山梨県富士吉田市
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

富士淺閒神社の後から馬返しまで五粁半の閒馬車が通じ、五合目まで一三粁の閒は馬に乘つて行かれる。神社の西一〇〇米、登山路の南側に大塚を見、更に諏訪森御料林を眺め、その一部の赤松の閒に分け入る。馬返しまでは勾配平均四度の裾野で途中に大石茶屋、中の茶屋がある。このあたり山頂から噴出した砂礫は、幾分分解して土壤化して居るので、道路はやゝ固く足許も確かで、御殿場口、須走口に比し步行が安易である。大石茶屋のあたりはつゝじが原である。中の茶屋の下約七〇〇米の處に岐路があり、東南へ進むこと一粁で泉瑞に達し、更に南一粁で雁の穴に至る。泉瑞は吉田の水道水源である。雁の穴は熔岩トンネルの一種で普通の橫洞の外に數個の獨立の竪穴がある。この竪穴の存在は珍らしきものとされて居る。

中の茶屋から東北に向ひ一粁半進めば涸谷がある。その北岸は劍丸尾熔岩流の絕壁で、丸尾はこのあたりで幅約一粁ある。その兩側に近く熔岩洞穴がある。北なるを舊胎內、南なるを新胎內と稱し、舊胎內は總延長六五米、巡檢者の多い點と信仰の對象たる點に於て、富士の諸熔岩洞穴中第一に位する。洞內には熔岩鍾乳石が垂下する。新胎內は總延長六〇米半。

馬返しに至れば裾野は盡きて富士山の本體となり、これより五合目までは六粁で、平均傾斜七度。一合目に至れば濶葉喬木帶に入り、深山櫻、なゝかまど、矢筈はんのき、さはしば、夏椿、こばのとねりこなどを主として裏白、樅、米栂を混へて居る。二合目には米栂、白檜が次第に多くなり、小室淺閒神社はその密林に埋まつて居る。三合目は純粹の針葉喬木帶になり、陰草としてはごぜんたちばなが目につく。また富士松、五葉松の閒にしやくなげが混ずる。次に白檜の純林があり、四合目を過ぐれば深山はんのき、矢筈はんのきが多くなり落葉松が小さくなる。五合目は樹木線と稱すべき處で、喬木帶は盡きて灌木帶となる。こゝは山中第一の聚落地で休泊所、救護所などの設がある。精進口登山道の分岐點、御中道の出發點である。これから先は粗鬆なる砂礫と磊々たる岩盤の裸出する所謂石山三里である。五合目から八合目までは四粁で、その閒には約二〇度の急坂がある。植物には岩閒にいたどりや深山はんのきがあるのみで展望が廣い。六合目との閒に經ケ嶽と云ふ熔岩塊がある。文永六年日蓮聖人が百日の閒法を修した道場で、手書の經卷を埋めた處と傳へて居る。それより上には熔岩流の斷絕して殘つたものが處々にある。砂走りの澤の北に絕壁をなす屏風岩、七合目の鐮岩、七合三勺の龜岩、七合五勺の烏帽子岩などはそれである。これらの岩閒にはいたどり、こけもゝがあり、しやくなげ、深山はんのきの喬木が偃ひ、藥草として名高いおにくも發見される。烏帽子岩のほとりには富士講開祖から六代目の行者で、三十一日閒斷食して享保十八年入定したといふ身祿の遺骨を納めた入定窪がある。その左の岩壁からは淸水が滴る、八合目で須走口と合する。

八合目から頂上まで一粁の閒を胸突八丁と云ふ。平均傾斜二四度、登攀最も困難なる處である。普通富士淺閒神社から馬返しまでは一時閒四十分、それから五合目までも一時閒四十分、それより八合目までは三時閒、胸突八丁は二時閒を要する。

御來迎を拜するは九合目以上がよい。殊にその上方日の御子石と云ふ一圓石の上に於てするが最もよい。胸突八丁を攀ぢ終れば頂上の東北端久須志神社の傍に達する。

吉田・富士五湖のみどころ