武蔵国分寺跡

武藏國分寺址

昭和初期のガイド文

省線電車国分寺駅の西南2km、国分寺村国分寺にあります。寺跡は丘陵から低地にわたり東西700m、南北550mの地域を占め、金堂、講堂および塔などの跡は現在の国分寺本堂の西南、字八幡前にあります。金堂跡のある地点は俗称古堂と呼び、土壇および礎石約20個遺存し、七間四面の建物があったことが推定されています。講堂跡は金堂跡の北に、僧房跡は講堂跡の西にあっていずれも礎石が残っている。七重塔跡は金堂跡の東南150m、字前野の畑中にあって、10個の礎石と円柱孔がある心礎が遺存し、四間四面の建物があったことが推定されます。南大門跡は金堂跡の南220mの地にあって遺瓦が散在しています。昔国分寺と国府とを連絡した大路の跡は、金堂跡から正南、門跡を通じて府中に達する里道となって遺存しています。なおこのほか、講堂跡の北70mの丘上、仁王門および薬師堂のあるところに残存している礎石は北院跡と推定され、また金堂跡の西400mの丘陵上にある礎石および古瓦は西院跡と推定、さらに僧房跡と講堂跡との北には土塁が残っています。武蔵国分寺は奈良時代の天平9年(737年)聖武天皇の詔勅に基づき国家の安寧を祈り国民の教化を目的として、国ごとに建立された金光明寺のひとつで、遺跡は現在指定の史跡です。

現存国分寺は新義真言宗に属し、薬師堂に薬師如来の坐像を安置しています。木造で高さ約1.2m、左手に楽壺を載せ右手に説法印を結び、相好は端厳で鎌倉時代の作になり国宝に指定されています。このほあk深見玄岱筆の額があります。また堂の右手前面に武蔵国府中国分寺碑記と題する碑があります。その文は江戸時代後期の宝暦年間(1751~1764年)服部仲英が作ったものです。寺跡から発見された巴瓦、唐草瓦および文字瓦などは、付近出土の板碑とともに寺に保存されています。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行

令和に見に行くなら

名称
武蔵国分寺跡
かな
むさしこくぶんじあと
種別
見所・観光
状態
状態違うが見学可
備考
発掘調査により新たに発見された遺構などを加え、史跡の範囲は広がっています。
住所
東京都国分寺市西元町1~4
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

省線電車國分寺驛の西南二粁、國分寺村國分寺にある。寺址は丘陵及低地に亘り東西七〇〇米、南北五五〇米の地域を占め、金堂、講堂及塔婆などの址は現時の國分寺本堂の西南、字八幡前にある。金堂址のある地點は俗稱古堂と呼び、土壇及礎石約二十個遺存し、七閒四面の建物の存したことが推せられる。講堂址は金堂址の北に、僧房址は講堂址の西にありて何れも礎石が殘つて居る。七重塔婆址は金堂址の東南一五〇米、字前野の畑中に在つて、十個の礎石と圓柱孔ある心礎が遺存し、四閒四面の建物のあつた事が推せられる。南大門址は金堂址の南二二〇米の地にありて遺瓦が散在して居る。昔時國分寺と國府とを連絡した大路の址は、金堂址より正南、門址を通じて府中に達する里道となつて遺存して居る。尙この外、講堂址の北七〇米の丘上、仁王門及藥師堂のある所に殘存せる礎石は北院址と推せられ、また金堂址の西四〇〇米の丘陵上に存する礎石及古瓦は西院址と推せられ、尙僧房址と講堂址との北には土壘が遺つて居る。武藏國分寺は天平九年聖武天皇の詔敕に基き國家の安寧を祈り國民の敎化を目的として、國每に建立された金光明寺の一で、遺址は今指定の史蹟である。

現存國分寺は新義眞言宗に屬し、藥師堂に藥師如來の坐像を安置して居る。木造で高さ約一米二(四尺)、左手に樂壺を載せ右手に說法印を結び、相好頗る端嚴で鐮倉時代の作に係り國寶に指定されて居る。この他深見玄岱筆の額がある。また堂の右手前面に武藏國府中國分寺碑記と題する碑がある。その文は寶曆年閒服部仲英の作つたものである。寺址から發見された巴瓦、唐草瓦及文字瓦などは、附近出土の板碑と共に寺に保存されて居る。

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