本門寺

本門寺[日蓮宗大本山]
※現代の景観です。

昭和初期のガイド文

池上電車池上駅の北約0.5km、池上町にあります。鎌倉時代の文永年間(1264~1275年)池上右衛門太夫宗仲が日蓮に帰依してこれを創建したと伝わり、長栄山本門寺の名称は日蓮が自ら命名したものといいます。弘安5年(1282年)10月13日、日蓮聖人はここで入寂し、弟子の日期に本寺を継承させ、以来日蓮宗の名刹として今日におよんでいます。現存する諸建築の主なものは祖師堂、釈迦堂、客殿、五重塔および仁王門です。毎年10月11、12、13日の会式には大いに賑わいます。境内には狩野探幽を始め狩野家の墓があり、明治時代の政治家星亨の墓もあります。

日蓮聖人像[国宝] 祖師堂の本尊です。高さ約86cm、寄木造、著色、玉眼嵌入の坐像で、左手に経を持ち、右に払子を取り、雄偉な気魄を備えた面貌は、日蓮聖人の人格を彷彿とさせるもので、鎌倉時代の肖像彫刻のなかでも優秀な作です。

像の膝裏と胎内に記された墨書の銘文によると、この肖像は日蓮聖人の七周忌に当る正応元年(1288年)に日持、日浄の2人が大願主となり、日行、日妙がこれを助けて造立したことが知られ、胎内には聖人の遺骨が納められています。聖人終焉の地にあってこのように由緒の確かな像を伝えていることは、尊重すべきことです。その着衣は下着のみを彫り、袈裟は実物を着せるようにしてあるのは、この時代の一種の流行りであって、鎌倉時代の彫刻によくこの種の形像を見るものです。

五重塔[国宝] 仁王門の右手にあります。安土桃山時代の慶長13年(1608年)徳川秀忠がその乳母の冥福を祈るために建立したものです。各層三間三面、屋根の第一層、第二層は本瓦葺、そのほかは銅板葺、総朱塗の塔婆です。

仁王門[国宝] 慶長13年(1608年)に徳川秀忠が五重塔と同時に建立したものです。五間三戸朱塗の楼門で、屋根は入母屋造、銅板葺で、規模雄大、江戸初期におけるこの種の楼門の典型的な遺構です。

※底本:『日本案内記 関東篇(初版)』昭和5年(1930年)発行
日蓮聖人像(池上本門寺)

令和に見に行くなら

名称
本門寺
かな
ほんもんじ
種別
見所・観光
状態
現存し見学できる
備考
一般に池上本門寺と呼ばれます。
住所
東京都大田区池上1-1-1
参照
参考サイト(外部リンク)

日本案内記原文

池上電車池上驛の北約半粁、池上町にある。文永年閒池上右衞門太夫宗仲日蓮に歸依してこれを創建したと傳へ、長榮山本門寺の稱は日蓮の自から命名したものと云ふ。弘安五年十月十三日日蓮聖人こゝに入寂し、遺弟日期をして本寺を繼承せしめ、爾來日蓮宗の名刹として今日に及んで居る。現存諸建築の主なるものは祖師堂、釋迦堂、客殿、五重塔婆及仁王門である。每年十月十一、十二、十三日の會式には大に賑ふ。境內には狩野探幽を始め狩野家の墓があり、明治時代の政治家星亨の墓もある。

日蓮聖人像[國寶] 祖師堂の本尊である。高さ約八六糎(二尺八寸三分)、寄木造、著色、玉眼嵌入の坐像で、左手に經を持ち、右に拂子を取り、雄偉なる氣魄を備へた面貌は、日蓮聖人の人格を彷彿たらしむるものゝ如く、鐮倉時代の肖像彫刻中の優秀なる作である。

像の膝裏と胎內に記された墨書の銘文によると、この肖像は日蓮聖人の七週忌に當る正應元年に日持、日淨の二人が大願主となり、日行、日妙がこれを助けて造立したことが知られ、胎內には聖人の遺骨が納められて居る。聖人終焉の地にあつてかゝる由緖の確かな像を傳へて居ることは、尊重すべき事實である。その着衣は下着のみを彫り、袈裟は實物を着せるやうにしてあるのは、この時代の一種の好尙であつて、鐮倉時代の彫刻に往々この種の形像を見るのである。

五重塔婆[國寶] 仁王門の右手にある。慶長十三年德川秀忠がその乳母の冥福を祈るために建立したものである。各層三閒三面、屋根第一層、第二層は本瓦葺、その他は銅板葺、總朱塗の塔婆である。

仁王門[國寶] 慶長十三年に德川秀忠が五重塔婆と同時に建立したものである。五閒三戶朱塗の樓門で、屋根は入母屋造、銅板葺にして、規模雄大、江戶初期に於けるこの種樓門の典型的遺構である。

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